【第百二十五話】積み重ねた先に
〈百年前・港湾都市シドー・領主邸〉
――数刻後。
領主は、掌に置かれた一通の封筒を見つめていた。
「……これは?」
「フリニア王国の騎士団にいる、ある人物へ届けて欲しいのです」
「彼宛の手紙と、鍵が入っています」
「何の鍵だ?」
「今は、言えません」
「……またそれか」
領主が呆れたように息を吐く。
オルフェウスは苦笑した。
「すみません」
「謝るくらいなら説明しろ」
「それはできません」
「まったく……」
領主は封筒を摘まみ上げる。
「今度、王都に行く時でもいいのか」
「構いません」
オルフェウスは窓の向こうへ目を向けた。
領主はしばらく何も言わなかった。
「……分かった」
「ありがとうございます」
領主がオルフェウスを見つめる。
「……庭園の用事は終わったのか?」
領主を見つめるオルフェウス。
「……おかげさまで」
「あとは仕上げだけです」
「……会うのはこれが最期になるのか?」
オルフェウスの表情が止まった。
それから、いつものように笑う。
「……この街にも、あなたにも迷惑はかけませんよ」
「答えになっていないぞ」
「……そうですね」
「……そうか」
領主はそれ以上、何も聞かなかった。
「では」
オルフェウスが立ち上がる。
「お世話になりました」
「……もう行くのか?」
「はい」
「せっかくだ」
「暇ができたのなら、自分が救った街を歩いておけばいい」
「オルフェに救われた人たちが、お礼を言いたいと言っていたぞ」
「……十数年前の出来事ですよ?」
「時間は有限だ」
「だが、その中で積み重なっていくものもある」
「だからこそ、積み重ねた先でしか見えないものもある」
「日常を過ごせることのありがたさや、恩人への感謝とかな」
「……」
オルフェウスは無言で頭を下げる。
「オルフェ」
部屋を出ようとした瞬間、呼び止められる。
振り返ると領主は、何かを言おうとしていた。
だが。
「……いや」
首を横へ振った。
「達者でな」
「お前と出会えたことは、私にとってかけがえのないものだった」
「私にとっても、この街にとってもな」
オルフェウスは少しだけ目を細める。
「――はい」
「庭園の一部に珍しい薬草を植えておきました」
「この街のために使ってください」
そして、ゆっくりと扉が閉じる。
オルフェウスは再び東屋へ向かおうとした。
だが。
領主の言葉を思い出す。
(最期だしな……)
その足は、市場に足が向かっていた。
〈百年前・港湾都市シドー・市場近郊〉
十数年前とは、随分変わっていた。
見覚えのない店。
建て替えられた家。
知らない顔。
それでも。
「……変わってないところもあるんだな」
焼きたてのパンの匂い。
威勢のいい商人の声。
道の端を走り回る子どもたち。
あの日も。
この街には、同じような声が響いていた。
「――オルフェウス先生?」
不意に聞き覚えのない声で、名前を呼ばれる。
振り返ると、古い教会の前に一人の女性が立っていた。
年齢は二十代半ばほど。
その手には、小さな子どもが握りついている。
「……僕?」
女性は目を丸くした。
そして。
嬉しそうに笑った。
「やっぱり!」
「覚えてませんよね?」
オルフェウスは困ったように笑う。
「ごめん」
「どこかで会ったかな?」
「十年以上前です」
女性は、自分の胸元へ手を当てる。
「あの時、この街で病が流行ったでしょう?」
オルフェウスの表情が僅かに変わった。
「……ああ」
「私、その時に先生に薬をもらった子どもの一人です」
「え?」
改めて顔を見る。
だが。
記憶の中にいるのは、熱に浮かされていた幼い少女だった。
今、目の前にいる女性とは重ならない。
女性が笑う。
「分からなくて当然ですよ」
「私だって鏡を見ないと、あの頃の自分なんて思い出せませんから」
「それに」
「あの時助けられた子供は、私だけじゃありませんので」
「……大きくなったね」
思わず出た言葉だった。
「はい」
女性は嬉しそうに頷いた。
「先生のおかげです」
「先生がいなかったら、あの時死んでいたと思います」
その言葉に、オルフェウスは何も返せなかった。
女性の後ろからは、何人もの子どもが顔を覗かせている。
「先生ー!」
「誰ー?」
「あの人がお薬の先生?」
次々と姿を現す子どもたち。
オルフェウスが目を丸くする。
「この子たちは?」
「教会で預かっている子たちです」
女性が振り返る。
「親を亡くした子もいますし」
「家が貧しくて、昼間だけここで過ごしている子もいます」
「読み書きを教えたり、ご飯を食べさせたり」
「病気になったら薬を用意したり」
オルフェウスは古びた建物を見上げた。
「大変じゃない?」
「あはは……大変です」
即答だった。
「でも」
女性は子どもたちを見る。
「私も、誰かに生かしてもらいましたから」
オルフェウスの瞳が僅かに揺れる。
「だから今度は」
「私が、この子たちを生かしてあげたいんです」
子どもたちの笑い声が響く。
十数年前、自分が渡した一本の薬。
覚えてすらいなかった小さな行為。
それが今、目の前で別の誰かへ繋がっていた。
「……そっか」
オルフェウスは小さく笑う。
「ちゃんと、続いてたんだね」
「何がですか?」
「ううん」
首を横へ振る。
「独り言」
その時。
一人の少年がオルフェウスの革鞄を指差した。
「おじさん、薬屋なの?」
「おじ……」
思わず固まる。
女性が吹き出した。
「ふふっ」
「十年以上経ってますから」
「……人間って、本当に歳を取るのが早いもんねぇ」
口にした瞬間。
オルフェウスの笑みが、ほんの僅かに止まった。
だが、すぐにいつもの表情へ戻る。
子供たちに向けて、革鞄を開く。
「じゃあ、おじさんから一つ教えてあげようか」
「薬草?」
「そう」
子どもたちが一斉に集まってくる。
「この街にも生えてる薬草なんだけどね――」
気付けば。
オルフェウスは子どもたちに囲まれていた。
植物の話をして。
怪我をした子の膝を診て。
苦い薬を嫌がる子に笑われて。
久しぶりに。
何も考えず、時間を過ごしていた。
――いつの間にか、日が傾き始めていた。
「先生、また来てね!」
子どもたちの声が背中から届く。
オルフェウスは足を止めた。
振り返る。
無邪気に手を振る子どもたち。
その中心で、あの日救った少女も笑っていた。
「……うん」
オルフェウスも手を振り返す。
「またね」
その約束を守れないことを知っているのは、
オルフェウスだけだった――
【第百二十六話へ続く】




