【第百二十四話】未来へ残すもの
〈百年前・港湾都市シドー・領主邸庭園〉
――それから、幾日もの時間が過ぎた。
東屋の卓上には、何冊もの魔導書が積み重なっていた。
開かれた頁。
書き殴られた紙。
幾重にも重ねられた術式。
その中央で、オルフェウスは一人、筆を走らせていた。
「……違う」
書き終えた術式を見つめ、すぐに首を横へ振る。
「これだと、外側から干渉された時に……」
紙を脇へ退け、新しい紙を広げる。
そして、再び筆を走らせる。
結界。
認識阻害。
空間隔離。
侵入拒絶。
コンステラで学んだ術式を、一つずつ組み合わせていく。
だが、ただ重ねればいいわけではない。
一つを強くすれば、別の術式へ干渉する。
存在を隠しすぎれば、
今度はいつか訪れるはずの誰かさえ辿り着けなくなる。
何度も。
何度も。
組み直した。
「……これなら」
筆が止まる。
オルフェウスは目の前に広がる術式を見つめた。
「いける……かな」
確信があるわけではない。
相手は、何ができるのかすら分からない存在なのだから。
それでも。
今の自分に作れるものとしては、これ以上のものはなかった。
オルフェウスはゆっくりと立ち上がる。
「っ……」
腹部に痛みが走った。
咄嗟に東屋の柱へ手をつく。
傷は塞がり始めている。
だが。
休むことなく術式を組み続けた身体は、明らかに弱っていた。
「……あと少し」
自分へ言い聞かせるように呟く。
視線を向けた先。
東屋の中央には、複雑な術式が刻まれていた。
オルフェウスが、その中心へ手を触れる。
魔力を流した。
淡い光が走る。
一つ。
二つ。
三つ。
幾重にも重ねられた術式が、順番に起動していく。
そして。
何もなかった空間が、ゆっくりと歪んだ。
「……」
オルフェウスの前に、地下へ続く階段が現れる。
その先には、暗闇が広がっていた。
小さく息を吐き。
一歩。
足を踏み入れる。
階段を下りる度に、地上の音が遠ざかっていく。
潮騒も。
風の音も。
鳥の声さえも。
やがて。
何も聞こえなくなった。
辿り着いた先にあるのは。
石造りの小さな空間。
そして。
その最奥、白銀の扉があった。
「……できた」
思わず小さな笑みが零れた。
何度も失敗した。
何度も術式を組み直した。
それでも。
ようやく。
形になった。
オルフェウスは白銀の扉へ近付く。
表面へ手を触れる。
冷たい。
だが。
その奥から。
自分が刻んだ術式の魔力を感じる。
力ずくで壊そうとすれば、扉へ至る空間そのものが閉じる。
魔力で探ろうとしても、
外側からはここに何かがあることすら認識できない。
そして、この扉を開く方法は一つだけ。
――正しい鍵を使うこと。
オルフェウスは懐から、小さな金属片を取り出した。
まだ。
何の変哲もない鍵に見える。
だが。
その内部には。
いくつもの術式が刻み込まれていた。
「……あとは、これを預ければ」
自分で持っていてはいけない。
精霊の涙とそれを開く鍵。
両方を同じ場所へ置けば、封印の意味がない。
だから、鍵は別の場所へ残す。
信頼できる人物へ。
そしていつか、ここへ辿り着く誰かへ。
オルフェウスは白銀の扉を開いた。
その先にあるのは、さらに小さな空間。
中央には。
石で作られた台座だけが置かれている。
オルフェウスは胸元へ手を伸ばした。
小さな箱を取り出す。
蓋を開くと、淡い光が暗い空間を照らした。
――精霊の涙。
「……長かったね」
誰に言うでもなく。
そう呟いた。
ハルモニアからラクテアへ。
ラクテアからフィラへ。
フィラからハーデスへ。
ハーデスから自分へ。
多くの者の手を渡り。
多くの願いを重ねて。
そして、多くのものを狂わせた。
それでも。
まだ、この光は残っている。
オルフェウスは精霊の涙を手に取った。
「いつか」
掌の中の光を見つめる。
「ちゃんと帰れるから」
ハルモニアのもとへ。
本来あるべき場所へ。
その時がいつなのか。
誰がそれを成すのか。
自分には分からない。
けれど。
ラクテアが見た星が、確かに遥か先まで続いているのなら。
「……それまで、ここで待ってて」
精霊の涙を、静かに台座へ置いた。
淡い光が空間を満たす。
オルフェウスはしばらく、その光を見つめていた。
やがて、踵を返し白銀の扉を閉じる。
地上へ戻る前に、白銀の扉の横にある石壁へ目を向けた。
「……」
少し考えてから。
オルフェウスは道具を手に取った。
石壁へ、ゆっくりと文字を刻み始める。
一文字。
また一文字。
もし。
いつか。
自分の知らない誰かが。
ここまで辿り着いた時のために。
――この先に眠るものを求める者へ。
――ここにあるものは、誰かが所有するためのものではない。
――力を得るためでも、願いを叶えるためでもない。
――本来あるべき場所へ帰る、その時まで。
――ただ守るために、ここへ残した。
刻む音だけが、静かな地下空間へ響いていく。
――もし、この扉の前へ辿り着いたのなら。
――あなた自身の意思で、この先へ進むかを決めてほしい。
それから、オルフェウスは小さく笑った。
「……これくらいは、いいよね」
石壁を見つめるオルフェウス。
「フィラにも残しておきたいな」
もし。
いつか彼女がここまで辿り着いてしまった時。
自分が何を考え。
なぜ、精霊の涙を奪ったのか。
それだけは伝えておきたかった。
――君は、自分の命を捨ててしまう。
オルフェウスの手が、一度止まる。
フィラなら。
精霊の涙を使えば、自分の寿命など惜しまず差し出すだろう。
だからこそ。
――だから、君からこれを奪うしかなかった。
再び、石を削る音が響く。
――兄は、君の願いを叶えない。
手に力が入った。
ハーデスが望んでいるのは。
フィラと自分が共に生きる未来ではない。
その犠牲の先にある、別の世界だ。
――あの人の目的は――
そこまで刻んで、オルフェウスの手が止まった。
「……」
やがて、道具を持ち直す。
今刻んだ文字を、深く削り取った。
兄の目的をここへ残す必要はない。
それを知ったフィラが。
ハーデスの残したものを追いかけるかもしれないから。
必要なのは、彼女を遠ざけることではない。
生きてもらうことだった。
オルフェウスは最後の言葉を刻む。
――君の願いは――僕が叶える。
オルフェウスはしばらく、その言葉を見つめていた。
そして最後に。
その下へ、自分の名前を刻む。
――オルフェウス。
「……これでいい」
誰かに覚えていてほしいわけではない。
ただ。
この場所に精霊の涙を残したのが誰なのか。
この選択をしたのが誰なのか。
それだけは、未来へ残しておくべきだと思った。
そして、いつか。
自分の知らない誰かが、この場所へ辿り着く。
それが百年後なのか、もっと先なのか。
オルフェウスには分からない。
ただ。
「……頼んだよ」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
オルフェウスは白銀の扉へ背を向ける。
そして一人、地上へ戻っていった――
【第百二十五話へ続く】




