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【第百二十三話】約束の東屋

〈百年前・港湾都市シドー・旧領主邸庭園〉


――潮風が、庭園の木々を揺らしていた。


オルフェウスは一人、懐かしい石畳を歩いていた。


どれだけの時間が経っていても、景色はほとんど変わっていなかった。


木々の位置も。


季節の花々も。


海へ向かって緩やかに下っていく道も。


覚えている。


その先に、小さな東屋が見えた。


「……」


オルフェウスの足が止まる。


何度も訪れた場所。


けれど。


ここへ来たかった理由は、以前とは違っていた。


ゆっくりと歩み寄る。


東屋へ入り、海へ目を向けた。


青い水平線が、遥か彼方まで続いている。


「……綺麗だね」


「今年は、七年花の時期じゃないけど」


「それでも――君に見せたかったんだ」


返事はない。


それでも、オルフェウスは隣を見る。


当然、そこには誰もいない。


「――フィラ」


『海、見てみたい』


あの日の声が蘇る。


『シドーも一緒に行ってみたい』


「……うん」


誰もいない場所へ。


小さく頷く。


「……約束、破っちゃったな」


自嘲するように笑う。


それでも、胸元に手を当てる。


そこには、小さな箱があった。


――精霊の涙。


遥か先まで続くという星。


それを守るために、自分はここへ来た。


そして、この場所なら残せるかもしれない。


オルフェウスは東屋の中央へ歩く。


しゃがみ込み。


地面へ掌を触れた。


目を閉じ、魔力を流す。


足元の土へ。


そのさらに下へ。


地中を探るように。


ゆっくりと。


深く。


「……」


土。


岩。


水脈。


植物の根。


一つ一つ、魔力を通して確かめていく。


やがて。


オルフェウスが目を開いた。


「……ここなら」


肩から革鞄を下ろし、何冊もの魔導書を取り出す。


そのほとんどが、コンステラから持ち帰ったものだった。


この十年。


エルフたちから学んだ知識。


魔力。


契約。


結界。


封印。


人間領では知る者すらほとんどいない術式が、そこには記されていた。


オルフェウスは東屋の卓上へ魔導書を並べていく。


一冊。


また一冊。


そして。


最後の一冊を置いたところで。


その手が止まる。


「……やっぱり」


「……普通じゃ駄目だよね」


ただ隠すだけでは、いつか見つかる。


地中深くへ埋めても。


術式で閉ざしても。


相手が人間なら、それで十分だったかもしれない。


精霊やエルフであっても、対策を考えることはできる。


だが。


ペルスは違う。


何なのかすら分からない。


何ができるのかも。


どれほど生きるのかも。


――分からない。


そんな存在から。


数十年。


数百年。


あるいは、それ以上の時を越えて。


精霊の涙を守らなければならない。


「……一つじゃ足りない」


一冊の魔導書を開く。


結界術式。


――違う。


さらに捲る。


認識阻害。


――これだけでも足りない。


次の本に手を伸ばす。


空間隔離。


指が止まった。


「……これを基礎に」


紙を取り出し、筆を握る。


空間そのものを切り離す。


その上に、侵入を拒む結界を重ねる。


さらに。


精霊の涙そのものを外から認識できなくする。


それでも。


――まだ足りない。


オルフェウスの筆が走る。


一つ。


また一つ。


術式が紙の上へ増えていく。


組み合わせて。


崩して。


また組み直す。


自分が知っているものだけではない。


コンステラの魔導書に記された術式を。


一から読み解き、使えるものを拾い上げる。


どれほど時間がかかるかは分からない。


だが。


時間を惜しむつもりはなかった。


自分に残されているものを。


必要なだけ使えばいい。


やがて。


オルフェウスの筆が止まった。


「……鍵」


誰も入れないのでは意味がない。


いつか、自分でもフィラでもラクテアでもない誰かが。


精霊の涙をハルモニアへ返す時が来るかもしれない。


なら。


開ける方法だけは残さなければならない。


けれど。


――簡単に開けられてもいけない。


「……」


オルフェウスは考える。


そして。


紙の端に、新たな術式を書き加えた。


まだ。


形にはならない。


必要なものも。


足りない術式もある。


それでも。


少しずつ。


輪郭だけは見え始めていた。


精霊の涙を隠す場所。


そこへ至るための扉。


扉を開くための鍵。


そして。


鍵そのものを守るための仕掛け。


「……できる」


本当にできるのか、確証などない。


それでも――やるしかなかった。


オルフェウスは顔を上げる。


東屋の向こうには、海が広がっている。


夕陽が傾き始め、水面を赤く染めていた。


「フィラ……」


「生まれ変われるのなら」


「――ちゃんと二人で見ようね」


その約束が叶うのがいつなのかは分からない。


この人生ではないのかもしれない。


それでも。


遥か先へ続くという星が、本当に二人をこの場所へ導くのなら。


その時まで。


この場所を残す。


この光を残す。


オルフェウスは再び魔導書へ視線を落とし、次の頁を開いた。


二人で交わした約束の場所で。


遥か未来へ精霊の涙を繋ぐための封印が、


静かに形を持ち始めていた――


【第百二十四話へ続く】


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