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【第百二十二話】一人で来た街

〈百年前・港湾都市シドー〉


潮の香りがした。


船を降りたオルフェウスは、港に立ったまま目を細める。


行き交う人々。


積み荷を運ぶ商人たち。


沖合から聞こえてくる船乗りたちの声。


その向こうには。


朝の光を反射した海が、どこまでも広がっていた。


「……久しぶりだな」


「……一人で来るとは思ってなかったけどね」


――港湾都市シドー。


薬師として人間領を巡っていた頃、何度か訪れたことのある街だった。


そして、いつかフィラと一緒に来ようと約束した場所。


『海、見てみたい』


嬉しそうに笑っていた彼女の顔が浮かぶ。


『じゃあ、一緒に行こう』


『七年花が咲くころに』


あの時は。


本当にそうなると思っていた。


二人でここへ来て、海を見る。


七年に一度だけ咲く花を眺める。


そんな未来が、当たり前に待っていると思っていた。


「……ごめんね」


結局、自分は一人で来てしまった。


フィラにも、ラクテアにも。


これから自分がどこで何をするのかは伝えていない。


もしペルスが二人へ辿り着いたとしても、


知らなければ答えようがない。


それでいい。


オルフェウスは革鞄を肩に掛け直した。


「っ……」


腹部に鈍い痛みが走る。


ハーデスの魔法に貫かれた傷は、まだ完全には塞がっていない。


長旅も堪えているのだろう。


それでも。


休んでいる時間はなかった。


オルフェウスは港へ背を向ける。


そして。


懐かしい街並みの中へ歩き出した。


〈百年前・港湾都市シドー・領主邸〉


「……随分と久しぶりだな」


執務室へ通されたオルフェウスを見て。


領主は驚いたように目を見開いた。


「ご無沙汰しています」


「何年ぶりだ?」


「十二、十三年……くらいでしょうか」


「前々回の七年花の時期でしたので」


「そんなものか」


領主が立ち上がる。


だが。


すぐに眉を寄せた。


その視線が、オルフェウスの腹部へ向けられる。


「怪我をしているのか?」


「少し」


「少し、という顔ではないな」


「……薬は飲んでいます」


「薬師に言われると、何も言えんな」


呆れたように息を吐き。


領主が椅子を勧める。


「座れ」


「ありがとうございます」


腰を下ろす。


その瞬間。


腹部の奥に痛みが走った。


僅かに顔を歪める。


領主はそれを見ていたが。


何も言わなかった。


「それで?」


向かいへ腰を下ろす。


「今日はどうした」


「お願いがあって来ました」


「お前が?」


「はい」


「珍しいな」


領主が少し笑う。


「以前は、こちらが頼んでばかりだったというのに」


「……そんなこともありましたね」


かつて、シドーで流行り病が広がったことがあった。


当時この街に滞在していたオルフェウスは、


薬師として治療に加わった。


原因を探り、薬を作り、昼夜を問わず患者を診た。


その中には、領主にとって大切な者もいた。


「それで」


領主が尋ねる。


「私に何を頼みたい」


「その傷用の薬草か?」


「いえ……ここの庭園を」


「庭?」


「少しの間、使わせていただけませんか」


「庭園を何に使うつもりだ?」


「術式を作りたいんです」


「術式?」


領主が怪訝そうな顔をする。


「お前は薬師ではなかったのか?」


「薬師ですよ」


「では、なぜ術式が出てくる」


「……色々ありまして」


「その一言で済ませるには、随分と色々あった顔をしているがな」


オルフェウスは苦笑する。


「どこを使いたい?」


「東屋の周辺を」


その言葉に。


領主が僅かに目を細めた。


「あそこか」


「はい」


「お前、昔からあそこが好きだったな」


「覚えていたんですか?」


「仕事が終わる度に、庭へ消えていたからな」


「……すみません」


「別に怒ってはいない」


領主が肩を竦める。


「あの場所なら構わん」


「いいんですか?」


「ああ」


あまりにも簡単な返事だった。


「何をするのか、聞かなくても?」


「聞いてほしいのか?」


「……いえ」


「なら聞かん」


そう言って。


領主は机の上に積まれた書類へ目を向けた。


「それに、ちょうどいい」


「ちょうどいい?」


「この屋敷は建て替えることになっていてな」


「……建て替えるんですか?」


「ああ」


「もう決まったのですか?」


「新しい屋敷の計画も進んでいる」


領主は窓の外へ視線を向ける。


「この建物は取り壊す」


一度、言葉を切る。


「だが、庭園は残すつもりだ」


「とある商会に預けて、町の発展に繋げようと思ってな」


「ここの景色は素晴らしいからな」


オルフェウスの瞳が僅かに揺れた。


「……東屋も残るんですか?」


「その予定だ」


領主は不思議そうにオルフェウスを見る。


「何だ?」


「そんなにあの東屋が気に入っていたのか?」


「……そうみたいです」


自分でも今になって気付いた。


ここでなければならない理由が、また一つ増えた気がした。


「だったら好きに使え」


「商会との契約にも、取り壊さないことを含めるようにしておく」


「ありがとうございます」


「ただし」


領主の声音が変わる。


「危険なものではないんだろうな?」


「……」


すぐには答えられなかった。


領主の表情から笑みが消える。


「オルフェ」


「……危険なものを」


オルフェウスはゆっくりと口を開いた。


「危険ではなくするために来ました」


「……」


「それ以上は」


頭を下げるオルフェウス。


「聞かないでいただけると助かります」


しばらく。


領主は何も言わなかった。


やがて。


大きく息を吐く。


「……分かった」


「ありがとうございます」


「ただ」


領主は真っ直ぐオルフェウスを見る。


「シドーの民を危険に晒すものなら、私は止める」


「はい」


「お前が相手でもだ」


「分かっています」


オルフェウスは静かに頷いた。


この街を危険に晒すつもりなどない。


――その逆だ。


「そのための術式です」


領主はしばらくオルフェウスを見つめていたが。


やがて。


「……好きに使え」


そう言って、窓の向こうの庭園へ視線を向けた。


その先には、オルフェウスが最後に辿り着こうとしていた場所がある。


二人で来るはずだった、あの東屋が――


【第百二十三話へ続く】


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