【第百十九話】信じる星
〈百年前・人間領〉
どれほど、そうしていただろう。
扉の向こうから、足音が聞こえた。
フィラが顔を上げる。
「オルフェ……?」
だが。
扉を開けて姿を見せたのは、彼ではなかった。
「……フィラ様」
「……ブレル?」
深い緑の法衣を纏った、コンステラの神官長。
ラクテアが最も信頼する一人――ブレルだった。
「どうして……」
その姿を見た瞬間、フィラは察した。
「……お姉ちゃん?」
ブレルは静かに頷いた。
「ラクテア様より、あなたをお迎えするよう仰せつかっております」
「……」
フィラは手の中の紙を見つめると、すぐに立ち上がった。
「ブレル」
「はい」
「オルフェは?」
「……存じません」
「嘘」
「嘘ではありません」
「お姉ちゃんから聞いてるんでしょ?」
フィラが詰め寄る。
「オルフェがどこに行ったか知らない?」
「存じません」
「精霊の涙は?」
僅かな沈黙。
それだけで、フィラには十分だった。
「……知ってるんだ」
ブレルは否定しない。
「精霊の涙がオルフェウス殿へ託されたことまでは、伺っております」
「だったら!」
「ですが、行き先は聞いておりません」
「……」
「ラクテア様も、ご存じありません」
「……そんな」
手紙へ視線を落とす。
確かに、そう書かれていた。
――君にも、ラクテアさんにも伝えない。
「じゃあ……」
フィラは扉へ向き直った。
「探さないと」
「フィラ様」
「まだ遠くには行ってないかもしれない」
歩き出そうとする。
「探せば――」
「どこを探すのですか?」
足が止まった。
「……探す」
「ですから、どこを?」
「分かんないけど……」
「人間領は広大です」
「それでも!」
フィラが勢いよく振り返った。
「探す!」
ブレルはすぐには答えなかった。
怒るでもなく。
諭すでもなく。
しばらくフィラを見つめた後、静かに告げる。
「……コンステラにお帰りください」
「嫌」
「フィラ様」
「嫌!」
今度は、はっきりと言い切った。
「私はオルフェを探す!」
「見つけて、どうなさるのですか」
「連れ戻す!」
「本人が望まなくても?」
「……っ」
「彼が何をしようとしているのかも聞かずに?」
「それは……」
「ご自身の望む未来を、オルフェウス殿に選ばせるのですか?」
「違う!」
思わず声を荒らげるフィラ。
だが。
ブレルの表情は変わらない。
「違わないでしょうか」
穏やかな声だった。
だからこそ。
フィラは逃げることができなかった。
「フィラ様」
「……何」
「あなたは、ご自身の星が消えることを知っていたそうですね」
フィラの瞳が大きく開く。
「……オルフェから?」
「ラクテア様より伺いました」
「……」
「なぜ、誰にも伝えなかったのですか」
「それは……」
「オルフェウス殿に知られれば」
「止められると思ったからではありませんか?」
答えられない。
「ラクテア様に知られれば」
「精霊の涙を借りることができないと思ったからではありませんか?」
「……そうだよ」
俯いたまま、フィラは答えた。
「だったら何?」
ブレルの法衣を強く握る。
「私が何もしなかったら、オルフェが先に死ぬんだよ?」
「……」
「私はずっと残されるの」
「オルフェがいない世界で」
「何百年も……」
声が震えた。
「そんなの、嫌だった」
「……ええ」
「だったら――」
「ですが」
ブレルが静かに言葉を重ねる。
「オルフェウス殿は」
「あなたを失う未来など、望んでいなかったのでしょう」
フィラは何も言えなかった。
「あなたは、大切な人との別れを受け入れられないから」
「自分の命を差し出そうとした」
「そしてオルフェウス殿は……」
「理を曲げる代償があなたの命であるならば」
「そんな未来を、受け入れることができなかった」
「オルフェウス殿にとって、それは救いではなかったから……」
「だから、あなたからその選択を奪った」
「……」
無言のまま俯くフィラ。
ブレルは首を横へ振る。
「どちらが正しいとも申し上げておりません」
「……」
「ただ」
少しだけ。
その声音が柔らかくなった。
「今のあなたがオルフェウス殿を追えば」
「今度は、あなたが彼の選択を奪うことになるのではありませんか」
「……っ」
フィラは強く唇を噛んだ。
納得などできない。
したくもなかった。
それでも。
言い返す言葉が出てこなかった。
「……ブレルは」
しばらくして。
フィラが呟く。
「これでいいと思ってるの?」
ブレルが僅かに目を細める。
「精霊の涙」
「お姉ちゃんは返さなかった」
「オルフェに渡した」
「ブレルは、それでいいと思ってる?」
長い沈黙の後。
「いいえ」
ブレルは、はっきりと答えた。
フィラが顔を上げる。
「私は神官長です」
「本来ならば」
「精霊の涙はハルモニア様へお返しするべきだと考えております」
「じゃあ――」
「ですが」
ブレルは言葉を続けた。
「私は長くラクテア様にお仕えし」
「その傍らで何度も星詠みを見てきました」
「……」
「だからこそ」
ブレルは一度、静かに目を閉じる。
「ラクテア様の選択そのものに賛同できなくとも」
再び目を開く。
「――あの方が見た星を、私は信じます」
「……ずるい」
「ラクテア様は」
「――フィラ様とオルフェウス殿が笑い合う未来を見ていたようです」
「……ずるい」
フィラが再び呟いた。
「そうかもしれません」
「みんな……ずるいよ」
手の中の紙が、くしゃりと音を立てた。
ブレルは何も言わない。
ただ、しばらくしてから、フィラへ向かって手を差し出した。
「帰りましょう」
「……」
「ラクテア様がお待ちです」
フィラは、その手をじっと見つめる。
「……お姉ちゃんに会いたくない」
「でしょうね」
「すごく怒ってると思う」
「ええ」
「私も怒ってる」
「それも存じております」
「……帰りたくない」
「それでも」
ブレルは手を下ろさなかった。
「お二人には、話すべきことがあるはずです」
フィラはもう一度、手紙へ目を落とした。
最後に残された言葉。
――約束は、忘れてないよ。
「……馬鹿」
誰に向けたのか。
自分でも分からなかった。
やがて。
フィラは皺の寄った手紙を丁寧に折り畳み直し、胸元へしまう。
そして。
ゆっくりとブレルの手を取った。
「……帰る」
「はい」
「でも」
フィラが顔を上げる。
「納得したわけじゃないから」
「ええ」
ブレルは静かに頷いた。
「それでよろしいかと」
フィラは胸元へ手を添えた。
そこには、オルフェが残した手紙と小さな薬瓶があった。
「……言いたいこと、いっぱいあるから」
「ええ」
「全部言う」
ブレルは僅かに笑った。
「たまには姉妹喧嘩も必要かと思いますよ」
フィラはもう一度だけ、誰もいなくなった部屋を振り返った。
そして今度こそ、コンステラへ帰るために歩き出した――
【第百二十話へ続く】




