【第百十八話】置き手紙
〈百年前・人間領〉
朝の光が、薄いカーテンの隙間から差し込んでいた。
「……ん」
フィラの瞼が、ゆっくりと開く。
ぼんやりとした視界の先に映ったのは、見慣れない天井だった。
身体が重い。
頭の奥にも、まだ薄い霞がかかったような感覚が残っている。
「……」
ここは――。
そう考えた瞬間。
昨夜の記憶が、一気に蘇った。
「オルフェ……!」
勢いよく身体を起こす。
「っ……」
途端に視界が揺れた。
それでも構わず、フィラは辺りを見回した。
「オルフェ?」
返事はない。
寝台の傍ら。
昨夜、彼が座っていた場所にも誰もいなかった。
「……オルフェ?」
もう一度。
今度は少し大きな声で呼ぶ。
だが。
静かな部屋に、自分の声だけが虚しく響いた。
胸の奥に、嫌な予感が膨らんでいく。
フィラは寝台から降りると、覚束ない足取りのまま壁に手をついた。
「オルフェ!」
扉を開ける。
廊下にもいない。
隣の部屋にも。
「……嘘」
胸がざわつく。
――行かなきゃ。
――探さなきゃ。
そんな焦りに背中を押されるように振り返った時だった。
机の上。
昨夜まで精霊の涙が置かれていた場所に、
見覚えのないものが残されている。
「……」
一枚の紙。
その上には、見慣れた小さな薬瓶。
フィラの足が止まった。
嫌だった。
まだ何も読んでいない。
それなのに。
そこに何が書かれているのか、分かってしまった気がした。
「……やだ」
小さく首を振る。
「やだ……」
それでも。
足はゆっくりと机へ向かっていた。
震える手で紙を取る。
そこには、何度も見てきた彼の文字が並んでいる。
――フィラへ。
最初の一行だけで。
胸が締め付けられた。
それでも、フィラは先を追った。
――ごめん。
――君がこれを読んでいる頃には、僕はもうここにはいないと思う。
「……っ」
――精霊の涙は、僕が持っていく。
――どこへ行くのかは書かない。
――君にも、ラクテアさんにも伝えない。
――君たちを疑っているわけじゃない。
――知らないことが、一番安全だと思うから。
紙を持つ手が震えた。
「……勝手」
掠れた声が漏れる。
――勝手なことをしているのは分かってる。
「……分かってない」
――君が怒ることも。
「分かってないよ……」
――許してくれないかもしれないことも。
「だったら……」
文字が滲んだ。
「だったら、いなくならないでよ……」
フィラは袖で乱暴に涙を拭う。
まだ。
手紙には続きがあった。
――それでも。
――生きていてほしい。
「……」
――僕がいなくても。
――僕の知らない時間を生きることになっても。
――生きていてほしい。
ぽたり。
一滴の涙が、紙の上へ落ちた。
「そんなの……」
喉が震える。
「そんなの、私が決めることじゃん……」
「……ずるいよ」
震える指で、残された最後の数行を追う。
――それから。
――約束は、忘れてないよ。
フィラの目が止まった。
「……馬鹿」
紙を胸元へ引き寄せる。
「だったら……」
「一緒に連れて行ってよ……」
力が抜けるように、その場へ座り込む。
「……馬鹿」
今度は、ほとんど声にならなかった。
「……オルフェの馬鹿……」
胸元で、紙が小さく震えていた――
【第百十九話へ続く】




