【第百十七話】せめてもの償い
〈百年前・人間領〉
『オルフェ……』
しばらく、ラクテアは何も言わなかった。
やがて。
精霊を包む光が少しずつ弱くなっていく。
『……また連絡します』
「はい」
『フィラが起きたら』
『……馬鹿って言っておいてください』
オルフェウスは目を見開いた。
それから、少しだけ笑った。
「自分で言ってください」
「――僕は、フィラが目覚める前に立ち去ります」
息を呑んだのが、精霊越しに伝わる。
『……そうですか』
『これからも、その子をお願いしたかったのだけど』
「……兄さんと一緒にいた、あの男が気になります」
『……精霊でも、人間でもないという存在ですね』
「はい」
「あいつが何者なのか、まだ分からない」
「兄さんが倒れても」
「精霊の涙を奪われても」
「何も焦っていなかった」
オルフェウスは拳を握った。
「普通に隠すだけじゃ、きっと駄目です」
『……』
「ラクテアさんの見た“その時”が数百年先なら」
オルフェウスは手の中の精霊の涙を見つめる。
「僕自身が、そこまで生きている必要はありません」
『……オルフェ』
「大事なのは」
「僕じゃなくて、これが残っていることです」
「――その時まで、必ず守ります」
『……オルフェ』
「たとえ」
穏やかに笑う。
「そのために、全部を使うことになっても」
長い沈黙が返ってきた。
ラクテアは尋ねなかった。
『……そうですか』
ラクテアの声は静かだった。
『その道を選ぶのですね』
「……はい」
『あなたがコンステラにもたらしたものは、悲劇だけではありません』
『あなたの知識で救われた命があります』
『あなたがフィラにもたらしてくれた時間もあります』
『……最期に会えないのは残念ですが』
『“レーヌ”として、感謝の意をお伝えします』
『でも――』
『フィラの姉としては、あなたを許せそうにありません』
「……はい」
『――あの子を残していくつもりなのでしょう?』
オルフェウスは答えなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
『……無責任な人』
「ごめんなさい」
『謝らないでください』
『余計に腹が立ちますから』
少しだけ、ラクテアが笑ったような気がして。
オルフェウスも、小さく笑った。
「……止めないってことは、これが最良なんですよね」
『……最良なんてものは、誰にも分からないのですよ』
『ただ』
『“レーヌ”としては、あなたの選択を止めません』
オルフェウスが目を閉じる。
『――あなたに、星の導きがあらんことを』
その言葉を最後に、精霊を包んでいた光が消えた。
「……ありがとうございます」
返事はもうなかった。
部屋には再び、フィラの静かな寝息だけが戻ってくる。
オルフェウスはその場に立ったまま、
掌の中で淡く輝く精霊の涙を見つめた。
ラクテアが見た未来。
それが一年先なのか、十年先なのか。
あるいは、
自分が生きて辿り着けないほど遠い未来なのかすら分からない。
ただ一つ分かっているのは。
この光を、その時まで残さなければならないということだけだった。
「……ずっと先、か」
小さく呟く。
その言葉とともに、脳裏へ一人の男の姿が浮かんだ。
ハーデスの傍らにいた存在。
兄の影に潜み続けていた。
ずっと大精霊だと思っていたもの。
だが。
実際に目にしたそれは、精霊でもなければ人間でもなかった。
――ペルス。
兄はそう呼んでいた。
オルフェウスは目を細める。
兄弟が殺し合う間も、ペルスは一度も手を出さなかった。
ハーデスが倒れても。
精霊の涙を奪われても。
焦る様子すら見せなかった。
むしろ。
何もかもが未だ自分の掌の上にある。
そんな余裕すら感じさせていた。
それが、今になって異様なほど不気味だった。
「……どうして追ってこなかったんだ」
精霊の涙が必要なら、
あの場で自分を殺し、奪い返すこともできたはずだ。
少なくとも。
オルフェウスには、ペルスにそれができなかったとは思えない。
それなのに。
あの男は何もしなかった。
自分がどこへ逃げようと。
誰に預けようと。
いつでも取り返せる。
――そう思っているのだとしたら。
「……普通に隠すだけじゃ駄目だ」
人目につかない場所へ埋める。
術式で封じる。
そんな方法では、いずれ見つけられるかもしれない。
何より。
ラクテアの見た未来が数十年、あるいは数百年先にあるのなら。
自分の寿命など――あまりにも短い。
オルフェウスはゆっくりと寝台へ歩み寄った。
眠るフィラの頬へ触れる。
温かい。
確かに、生きている。
「フィラ……」
守ると約束した。
ラクテアにも。
フィラにも。
だが。
自分が生きて守り続ける必要はない。
自分の寿命が尽きたあとも。
誰にも触れられない場所に。
誰にも壊せない形で。
精霊の涙さえ残すことができればいい。
そこまで考えたところで、オルフェウスの視線が革鞄へ向いた。
中には、コンステラで学んだ魔導書が収められている。
この十年。
エルフたちとの交流の中で、様々な術式を学んできた。
魔力を操るもの。
契約によって力を結ぶもの。
そして、古い文献の中には――
生命そのものを代価とする術式も記されていた。
「……」
一つだけ確かなことがあった。
――普通の封印では足りない。
ペルスという存在から。
自分が死んだ後まで。
精霊の涙を守り抜けるだけのものが必要だった。
そのために、何を差し出せるのか。
答えは――もうほとんど出ていた。
兄を傷付けた。
フィラの意思を奪った。
本来なら。
返すべき精霊の涙を、今度は自分の手で隠そうとしている。
命を差し出せば、それですべてが許されるなどとは思っていない。
そんなに簡単なものではない。
それでも。
自分が差し出せるものの中で、最も大きなものは。
もう、それしか残っていなかった。
「……僕にできること」
眠るフィラを見つめる。
たとえ、その未来に自分がいなかったとしても。
彼女が生きているのなら。
それでいい。
オルフェウスは精霊の涙を胸元へ引き寄せた。
「……絶対に守るから」
いつか。
本当に帰るべき時が来るまで。
誰にも奪わせない。
ハーデスにも。
ペルスにも。
そして。
自分がこの世界からいなくなったあとでさえ。
そのために必要なら。
自分の命くらい、喜んで差し出そう。
それが。
兄を傷付け。
愛する人から選択を奪い。
精霊の涙を未来へ持ち去ろうとしている自分にできる、
せめてもの償いなのだから――
【第百十八話へ続く】




