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【第百十六話】遠い星

〈百年前・人間領〉


オルフェウスは机へ手を伸ばし、小さな箱を開いた。


「ラクテアさん」


『……何?』


「これを返します」


精霊の涙を手に取る。


淡い光が掌を照らした。


「もう……終わりにしたいんです」


「兄さんの研究も」


「フィラが自分を犠牲にすることも」


「全部」


護衛の精霊へ向かって、手を差し出す。


「ハルモニア様に返してください」


「それが、あるべき調和のはずです」


ゆっくりと精霊が近付いてくる。


あと少しで、その光が自分の手を離れる。


その時。


『――少し待って下さい』


オルフェウスも精霊も、動きを止めた。


「……ラクテアさん?」


返事はない。


『待って』


もう一度。


今度は、どこか戸惑ったような声だった。


『少しだけ……』


「……?」


『今、星を……』


そこで、声が途切れた。


オルフェウスは精霊の涙を手にしたまま待った。


静かな時間だけが流れていく。


やがて。


『……おかしい』


ラクテアの声が聞こえた。


「何がですか?」


『見えない』


「……?」


『違う』


すぐに否定する。


『見えないんじゃない』


『遠すぎる……』


「遠い……?」


『ええ』


『今、精霊の涙を返した先は見える』


『ハルモニア様のもとへ帰って』


『そこで……一つの流れが終わる』


「だったら」


『でも』


ラクテアが言葉を遮った。


『返さなかった先にも、星がある』


「……」


『とても細い』


『今にも途切れてしまいそうなのに』


『ずっと……』


『ずっと先まで続いている』


オルフェウスは手の中の光へ目を落とした。


「それは……どこまで?」


『分からない』


即答だった。


『いつなのかも』


『どこなのかも』


『その先に誰がいるのかも』


『何が起こるのかも』


『……』


『何も分からない』


「……」


『ただ』


ラクテアの声が少し強くなる。


『今じゃない』


オルフェウスが顔を上げた。


『ハルモニア様へ返す時は』


『――今じゃない』


「……ラクテアさん」


『オルフェ』


「はい」


『精霊の涙は』


僅かな躊躇いの後ラクテアは告げた。


『……もうしばらくだけ、あなたに預けます』


「僕が……?」


『ええ』


「でも」


手の中の光を見る。


「これは、ハルモニア様のものです」


『分かっています』


「返せるのに返さなければ」


オルフェウスは言葉を詰まらせる。


「その間に、ラクテアさんとフィラには……」


『……ええ』


ラクテアは否定しなかった。


『代償はあるでしょう』


「だったら――」


『それでもです』


「……」


『星詠みが必ず正しいとは限りません』


『未来は』


『選ぶものによって何度でも変わります』


ラクテアは静かに続ける。


『だから』


『この選択が正しいのかは、私にも分からない』


『それでも……』


『私は――この先へ続いている星を信じたい』


オルフェウスは、もう一度、精霊の涙を見つめた。


『ただし』


ラクテアの声が厳しくなる。


『これで良かったとは思わないでください』


「……え?」


『フィラは、ハルモニア様の精霊の涙を借りた』


『私は、それをお願いした』


『そして今』


『返せるものを、返さないことを選んだ』


「……」


『たとえ、この選択がいつか良い未来へ繋がったとしても』


ラクテアの声は静かだった。


『私たちがしたことが消えるわけではありません』


『ハルモニア様との約束もあります』


『私たちはこの先、代償を背負わなければならない』


「私たち……」


『私とフィラです』


眠る妹へ語りかけるように。


『これは』


『私とあの子が背負うべき罪です』


オルフェウスは、握っていた精霊の涙へ力を込めた。


「……違います」


『え?』


「二人だけじゃない」


真っ直ぐ。


精霊を見つめる。


「僕もです」


『オルフェ……』


「兄さんの研究に協力した」


「何をしようとしているのかも気付かなかった」


「最後には」


無意識に腹部へ手が伸びる。


「兄さんを傷付けて、精霊の涙を奪った」


眠るフィラへ視線を向ける。


「フィラが自分の命を差し出そうとしていると知って」


「今度は、その選択まで奪いました」


『……』


「全部」


オルフェウスは小さく息を吐く。


「僕が自分で選んだことです」


兄と戦うことも。


精霊の涙を奪うことも。


愛する人を眠らせることも。


そして――


精霊の涙を返さないことも。


「だから」


光を握る。


「僕にも……償わせてください」


『オルフェ……』


精霊の涙が、オルフェウスの掌で静かに輝いていた――


【第百十七話へ続く】


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