【第百十五話】馬鹿な子たち
〈百年前・人間領〉
静かな寝息だけが、部屋に響いていた。
オルフェウスは寝台の傍らに腰掛け、眠るフィラを見つめている。
泣いた跡の残る頬。
固く閉じられた瞼。
薄い寝具の下で、ゆっくりと上下する胸。
その一つ一つを確かめるように眺めていると、
ようやく胸の奥に張り詰めていたものが僅かに緩んだ。
――生きている。
それだけでよかった。
朝になれば、フィラは目を覚ます。
自分を責めるだろう。
怒るかもしれない。
もう二度と顔も見たくないと言われるかもしれない。
それでも。
今、こうして温かな命が目の前にある。
その未来を選べたのなら。
これでよかった。
「……ごめんね」
何度目になるのかも分からない言葉が、静かな部屋へ溶けていく。
その時だった。
窓辺で、小さな光が揺れた。
「……」
オルフェウスが顔を上げる。
月明かりの下に、一体の精霊が浮かんでいた。
フィラが人間領へ足を運ぶようになってから、
時折その気配を感じていた精霊。
ラクテアが妹を心配し、護衛として付けていた存在だった。
普段は少し離れた場所から見守り、危険がなければ
姿すらほとんど見せない。
だが今は。
まるで何かを問いかけるように真っ直ぐこちらを見ていた。
「……見てたんだね」
精霊は答えない。
ただ、その身体を包む光が小さく揺れた。
いつから見ていたのかは分からない。
それでも、少なくとも今夜の出来事は知っている。
オルフェウスは眠るフィラへ一度視線を戻した。
「だったら……ちょうどいいかな」
立ち上がった瞬間、腹部に鈍い痛みが走る。
思わず顔を歪めたが、すぐに精霊へ向き直った。
「ラクテアさんに、全部話したい」
精霊はしばらく動かなかった。
やがて、小さな身体から淡い光が溢れ始める。
それは一本の糸のように空間へ伸びていく。
『……オルフェ』
聞き慣れた声が部屋へ響いた。
『……この結末を迎えてしまったのですね』
その一言に。
オルフェウスは僅かに目を伏せる。
「ラクテアさん」
『フィラは?』
オルフェウスは寝台を見る。
「眠っているだけです」
少し間を置いて。
「……僕が眠らせました」
『……そうですか』
責める口調ではなかった。
『酷な選択をさせてしまいましたね』
その優しい声が、かえって胸に刺さる。
「話さないといけないことがあります」
オルフェウスは大きく息を吸った。
「全部――最初から話します」
それから、ハーデスの研究について話した。
情報核。
世界樹。
ハルモニア。
精霊王エキピュリア。
そして。
世界樹とハルモニア、その双方と繋がるフィラを利用して、
欠けた情報を補おうとしていたこと。
ラクテアは一度も言葉を挟まず、静かに聞いていた。
「兄さんは……」
そこで、オルフェウスの声が詰まった。
「その方法を使えば、フィラが死ぬことも分かっていました」
『……』
「それでも」
膝の上で拳を握る。
「研究を続けようとしていた」
『……そうですか』
返ってきた声は、驚くほど静かだった。
『それで』
「……はい」
『あなたの傷は?』
思わず自分の腹部へ視線を落とす。
精霊を介して、こちらの姿もある程度伝わっているのだろう。
「兄さんと……戦いました」
『ハーデスと?』
「はい」
『精霊の涙を取り返すために?』
「……はい」
机の上。
小さな箱の中で、精霊の涙が淡く輝いている。
『ハーデスは?』
その問いに。
すぐ答えることはできなかった。
脳裏に蘇る。
採取用のナイフ。
その刃が、兄の腹部へ沈んでいった感触。
「刺しました」
『……』
「僕が」
声が震える。
「兄さんを……刺しました」
「……」
「生きているかどうかは……分かりません」
『そうですか』
「……すみません」
『あなたが謝る必要はありません』
「……すみません」
それでも。
謝らずにはいられなかった。
やがて、ラクテアが静かに尋ねる。
『フィラはどこまで知っていたのですか?』
オルフェウスは眠る彼女へ目を向けた。
「……自分の行き着く先だけは、見えていたんだと思います」
「自分が死ぬかもしれないことを」
その瞬間、精霊を介して伝わってくる空気が変わる。
『……何ですって?』
オルフェウスは慌てて続ける。
「兄さんが何をしようとしていたのかも」
「情報核のことも知らなかった」
「でも」
眠るフィラを見つめる。
「精霊の涙を借りた頃に、星を見たそうです」
『星……』
「精霊の涙が光って」
「自分の身体を何かが通り抜けて」
「僕が泣いていた」
そして、最も伝えたくない言葉を。
それでも告げる。
「そのあと……自分の星が見えなくなったと」
長い沈黙が落ちた。
『あの子……』
ようやく聞こえたラクテアの声は震えていた。
『そんなこと、一言も……』
「言えば」
オルフェウスは俯いた。
「ラクテアさんが、精霊の涙を貸してくれないと思ったそうです」
『当たり前です……!』
悲痛な声が響いた。
『そんなものを見ていたと知っていたら!』
『私が貸すわけないでしょう!』
「……はい」
『どうして……』
『私にはあの子とあなたの笑顔が見えていたのに……』
かすれた声で呟くラクテア。
「僕のせいです」
『……』
「僕が先に死ぬのが嫌だった」
「僕がいない世界で、何百年も生きるのが嫌だった」
「だから」
「自分一人の命で」
「僕たちみたいに苦しむ人が、この先いなくなるなら」
「それでいいって……」
唇を噛むオルフェウス。
「でも」
「僕はフィラがいない世界を受け入れることができなかった」
『……馬鹿』
小さな声だった。
『本当に……』
『馬鹿な子たち……』
それ以上、ラクテアは何も言わなかった。
今どんな顔をしているのか。
精霊の向こう側にいるオルフェウスには見えない。
ただ。
僅かに乱れた呼吸だけが伝わってきた――
【第百十六話へ続く】




