【第百十四話】君の選択肢
〈百年前・人間領〉
開いた窓から、夜風が静かに入り込む。
遠くで虫が鳴いていた。
こんな夜でなければ、二人で星を眺めながら、
くだらない話でもしていたのだろう。
けれど今は。
互いの泣き声を堪える呼吸だけが、聞こえていた。
やがて。
フィラが小さく口を開いた。
「……ごめん」
「……」
「でも」
涙を拭いながら、精霊の涙へ手を伸ばす。
「返して」
オルフェウスの瞳が揺れた。
「フィラ……」
「お願い」
「ハーデスさんに返して」
「……」
「私が決めたことだから」
差し出された手は、僅かに震えていた。
それでも、フィラは手を引かなかった。
「私は……」
泣きながら、それでも彼女は笑った。
「オルフェと出会えて幸せだったよ」
その瞬間、オルフェウスの表情が変わる。
「……過去形にしないでよ」
「え?」
「まだ終わってない」
精霊の涙を箱へ戻し、静かに蓋を閉じる。
「僕は諦めない」
「……オルフェ」
「やれるだけのことを、やっていこう」
フィラの目が僅かに開いた。
オルフェウスは困ったように笑う。
「フィラの気持ちは分かった」
「でも」
「少しだけ」
「考える時間をくれないかな」
「……考える?」
「ああ」
そう答えた直後、張り詰めていたものが切れたように、
オルフェウスの身体がぐらりと傾いた。
「――オルフェ!」
咄嗟にフィラが身体を支える。
「ごめん」
「さすがに、兄さんと戦った直後だからね」
苦笑しながら腹部へ手を添える。
「正直……ちょっと限界」
「あ……」
そこでようやく、フィラの視線が血の滲んだ腹部へ落ちた。
「ご、ごめん!」
「傷、見せて!」
「大丈夫だって」
「だから大丈夫じゃないって!」
フィラは慣れない手つきで包帯を解き始めた。
「酷い……」
傷口を見た瞬間、その顔が強張る。
「これ……ハーデスさんが?」
「まあね」
「……」
何かを言いかけたフィラだったが、言葉にできなかった。
オルフェウスはそんな彼女の頭へ、そっと手を置く。
「フィラ」
「……なに?」
「少し休もう」
フィラが顔を上げる。
「今夜はもう、何も決めなくていい」
「でも……」
「僕もこのままじゃ、まともに考えられないから」
そう言って笑われてしまえば、フィラも強くは言えなかった。
「……分かった」
「ありがとう」
しばらくして。
傷の手当てを終えたフィラが、使った布や薬を片付け始める。
その横で。
オルフェウスはいつものように小さな薬草入れを開いた。
「何してるの?」
「寝る前のお茶」
「怪我人なんだから、私がやるよ」
「これだけは薬師に任せて」
「……そういう時だけ偉そう」
「専門家だからね」
ほんの僅かだけ、二人の間で張り詰めていた空気が緩んだ。
オルフェウスは乾燥させた葉をいくつか選び、小さな器へ入れていく。
その中に、一枚だけ別の葉を混ぜる。
オルフェウスの指が一瞬だけ止まる。
だが。
すぐに他の薬草と一緒に砕く。
「今日は何?」
フィラが覗き込もうとする。
「疲れてる時に飲むやつ」
嘘ではなかった。
「身体も温まるよ」
「じゃあ、ちょうどいいかも」
フィラは何も疑わず笑った。
胸が痛んだ。
戦いで負った傷よりも――ずっと。
湯を注ぐと、柔らかな香りが部屋へ広がる。
フィラも安心したように息を吐く。
「これ、好き」
「知ってる」
「覚えてたんだ」
「薬師だからね」
「それ関係ないでしょ」
二人で小さく笑った。
オルフェウスは先に自分の器へ口をつける。
フィラも、温かな茶をゆっくりと飲む。
「……おいしい」
「よかった」
「オルフェが淹れると、同じ薬草でもなんか違うんだよね」
「愛情かな」
「なにそれ」
フィラが吹き出した。
「自分で言う?」
「言ってみたかっただけ」
「ふふっ」
オルフェウスは、その笑顔をただ見つめていた。
「……どうしたの?」
「ううん」
「なんでもない」
器の中では、ゆっくりと湯気が薄れていく。
オルフェウスは小さく息を吸った。
「フィラ」
「ん?」
「……愛してるよ」
フィラが目を丸くする。
「急にどうしたの?」
「言いたくなっただけ」
少し照れ臭そうに笑う。
フィラも嬉しそうに目を細めていた。
「私も」
器を両手で包んだまま、フィラも笑った。
「愛してるよ」
それから、しばらく。
二人は何でもない話をした。
森で見つけた花のこと。
オルフェウスが次に見に行きたい薬草のこと。
以前フィラが木から落ちかけたこと。
くだらない話ばかり。
まるで。
今夜の出来事など――最初からなかったかのように。
やがて。
フィラの返事が少しずつ遅くなっていく。
「それでね……姉様が……」
言葉の途中で、小さな欠伸をする。
「眠い?」
「……ちょっと」
目元を擦りながら、フィラは苦笑した。
「今日は色々あったからかな」
「そうかもね」
「オルフェも寝ないと……」
「うん」
「もう少ししたらね」
フィラがもう一度欠伸をする。
そのまま、肩から力が抜けていった。
「……オルフェ」
「なに?」
「なんか……」
フィラの声が止まる。
ゆっくりとオルフェウスを見る。
そして。
その視線が、彼の手元で止まった。
自分の器は、ほとんど空いているのに。
――彼の薬茶は、ほとんど減っていなかった。
「……これ」
オルフェウスは答えなかった。
その沈黙だけで十分だった。
「……薬?」
「ごめん」
フィラの瞳が大きく開く。
椅子から立ち上がろうとした。
だが。
既に身体へ力が入らない。
「オルフェ……!」
崩れ落ちそうになった身体を、すぐにオルフェウスが抱き止める。
「身体に悪いものじゃないよ」
「朝には目が覚める」
「なんで……」
フィラの手が、弱々しく服を掴んだ。
「ごめん」
「待って……」
「精霊の涙……」
声から、少しずつ力が失われていく。
「返して……」
「……」
「ハーデスさんに……」
オルフェウスは目を閉じた。
「それだけはできない」
「オル……フェ……」
「フィラが、自分の命を捨てるっていうなら」
その身体を強く抱き締める。
オルフェウスの頬を涙が伝った。
「僕は――君から、その選択肢を奪う」
「……やだ……」
弱々しく首を横へ振る。
「お願い……」
「ごめん」
「返して……」
「ごめん」
それでも、他の言葉が見つからなかった。
「ごめん……フィラ」
やがて。
服を掴んでいた指がゆっくりと離れていく。
腕の中から、静かな寝息が聞こえてくる。
オルフェウスは動かなかった。
ただ。
眠るフィラを抱き締めていた。
彼女の身体は温かい。
確かに、ここに生きている。
その温もりを守れるなら。
嫌われてもいい。
恨まれてもいい。
もう二度と、会えなくなったとしても。
オルフェウスは眠るフィラの髪へ、そっと頬を寄せた。
「……愛してる」
誰にも届かない小さな声だった。
――窓の外には満天の星が広がっていた。
その中に、フィラの星がどれなのか。
オルフェウスには分からない。
だからこそ――もう消させない。
腕の中のフィラを、もう一度だけ強く抱き締めた――
【第百十五話へ続く】




