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【第百十三話】同じ恐怖

〈百年前・人間領〉


――夜。


窓から差し込む月明かりだけが、静かな部屋を淡く照らしていた。


「オルフェ!」


扉が開くなり、フィラが駆け寄ってくる。


オルフェウスの姿を見て、その顔から血の気が引く。


「その傷……!」


オルフェウスの衣服には、まだ乾ききっていない血が滲んでいる。


腹部には自分で応急処置を施していたものの、


歩いていること自体が不思議なくらい酷い有様だった。


「大丈夫だよ」


「どこが大丈夫なの!」


フィラは慌てて身体を支える。


触れられた瞬間。


腹部に痛みが走り、オルフェウスの顔が僅かに歪んだ。


「ほら!」


「痛いんでしょ!」


「……ちょっとだけね」


「もう!」


フィラに肩を貸されながら、オルフェウスは椅子へ腰を下ろした。


いつもなら、そんな二人のやり取りに笑いが生まれる。


だが。


今夜だけは違った。


「……何があったの?」


不安そうに尋ねるフィラ。


オルフェウスは俯き、小さく息を吐いた。


「兄さんと……戦った」


「え……?」


フィラの表情が固まった。


オルフェウスはゆっくりと顔を上げる。


「フィラ」


「――話さないといけないことがある」


その声に。


フィラも何かを察したのだろう。


何も聞かず、向かいの椅子へ腰を下ろした。


オルフェウスは全てを話した。


ハーデスの研究室で聞いたこと。


完成していない情報核。


世界樹。


ハルモニア。


そして。


世界樹とハルモニア、その双方と繋がっているフィラを利用し、


不足している情報を補おうとしていたこと。


「兄さんは……」


そこで一度、言葉が止まる。


口にするだけでも。


胸の奥を抉られるようだった。


それでも。


伝えなければならない。


「フィラを使って、情報核を完成させるつもりだった」


フィラは俯いたまま、何も答えなかった。


「それだけじゃない」


オルフェウスの拳が膝の上で震える。


「その方法を使えば」


声が掠れた。


「フィラが死ぬって……兄さんは分かってた」


静かな部屋に。


その言葉だけが重く残った。


だが。


フィラは驚かなかった。


泣きもしない。


ただ。


何かを受け入れるように目を伏せていた。


その様子に、オルフェウスは僅かな違和感を覚える。


「だから」


革鞄を引き寄せ、中から小さな箱を取り出した。


フィラの瞳が揺れる。


「精霊の涙……」


「ああ」


蓋を開く。


淡い光が二人の間を照らした。


「兄さんのところから持ってきた」


オルフェウスは、その光を見つめながら言う。


「もう終わりにしよう」


「……」


「これはハルモニア様に返す」


「ラクテアさんにも全部話して謝ろう」


「兄さんのことも」


「だから――」


「嫌」


小さな声だった。


あまりに短いその言葉に。


オルフェウスは顔を上げた。


「……フィラ?」


彼女は精霊の涙だけを見つめていた。


「返さない」


「何言ってるの?」


「これはもう――」


「違う」


フィラが首を横へ振る。


そして。


ゆっくりと手を差し出した。


「ハーデスさんに返して」


「……え?」


一瞬。


意味が分からなかった。


聞き間違いだと思った。


「精霊の涙」


フィラはもう一度言った。


「ハーデスさんに返して」


オルフェウスは言葉を失った。


「フィラ」


ようやく声が出る。


「今の話、聞いてた?」


「聞いてたよ」


「兄さんは君を殺すつもりなんだ!」


思わず声が大きくなった。


「君が死ぬって分かってて!」


「それでも利用しようとしてるんだよ!?」


「……うん」


「だったら――!」


「分かってたから」


オルフェウスの声が止まった。


フィラは。


どこか寂しそうに笑っていた。


「……え?」


「全部じゃないよ」


「ハーデスさんが何をするつもりなのかも」


「情報核のことも知らなかった」


胸元へ手を添える。


「でも」


「たぶん……私は死ぬんだろうなって」


小さく息を吐いた。


「そう思ってた」


オルフェウスは何も言えなかった。


しばらくして。


ようやく絞り出す。


「……いつから?」


「精霊の涙を借りた頃から」


「そんな……」


「星が見えたの」


フィラは窓の外へ視線を向けた。


夜空いっぱいに、数え切れないほどの星が瞬いている。


「私も姉様ほどじゃないけど」


「星詠みはできるから」


オルフェウスは黙って聞いていた。


「はっきりした未来じゃなかった」


「何が起こるのかも分からなかった」


目を閉じる。


あの時見た景色を思い出しているようだった。


「精霊の涙が光って」


「私の身体の中を、たくさんの何かが通り抜けていって」


「オルフェが泣いてた」


そこで。


フィラの声が僅かに震えた。


「それから――」


「私の星が、見えなくなった」


オルフェウスの顔から血の気が引いた。


「……ラクテアさんは」


「知らない」


「言ってない」


「なんで……」


フィラは困ったように笑った。


「言ったら、絶対に貸してくれなかったでしょ?」


「当たり前だよ!」


椅子が大きな音を立てた。


オルフェウスが勢いよく立ち上がったのだ。


その瞬間、腹部に痛みが走る。


顔を歪めながらも。


そんなことはどうでもいいとばかりに、フィラを見つめた。


「死ぬかもしれないって分かってたのに!?」


「それでも兄さんの研究を続けようとしてたの!?」


「……うん」


「なんで!」


今度はフィラも立ち上がった。


「じゃあ、どうすればよかったの!?」


抑え込んでいたものが。


その一言を境に、一気に溢れ出した。


「オルフェが死ぬのを待ってればよかった!?」


「姉様まで巻き込んで!」


「みんなに迷惑をかけて!」


「それなのに結局、何もできないまま!」


涙が頬を伝う。


「何百年も生きろっていうの!?」


「フィラ……」


「私は嫌だよ!」


「オルフェがいなくなって」


「何百年も一人で生きて」


胸元を強く握り締める。


「あの時やっておけばよかったって」


「私一人が死ねば、何かを変えられたのにって!」


「そんなことを思いながら生きるなんて……」


声が震えた。


「私にはできない!」


オルフェウスは何も言えなかった。


フィラの涙だけが。


静かに床へ落ちていく。


「ハーデスさんが言ってたんでしょ?」


「私みたいな人は」


「これからも生まれるって」


「……」


「だったら」


フィラは袖で涙を拭った。


「私一人で済むなら」


「それで、オルフェと私みたいに苦しむ人がいなくなるなら」


「私は――」


「……ずるいよ」


フィラの言葉が途切れた。


「え……?」


オルフェウスは俯いていた。


「フィラは」


「僕がいない世界なんて嫌だって言ったよね」


「……」


「僕が死んで」


「フィラだけ残されるのが嫌だって」


ゆっくりと顔を上げる。


その瞳にも。


涙が滲んでいた。


「なのに」


唇が震える。


「僕には……フィラがいない世界で生きろって言うの?」


「……っ」


フィラの顔が歪んだ。


「僕だって嫌だよ」


「フィラがいなくなるなんて」


「そんなの嫌に決まってる!」


「……オルフェ」


「フィラが僕を失うのが怖いのと同じくらい」


声が掠れる。


「僕だって、フィラを失うのが怖いんだよ……」


それきり、どちらも何も言えなくなった――


【第百十四話へ続く】


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