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【第百十二話】最愛の弟

〈百年前・人間領・ハーデスの研究室〉


「なに――」


轟音が響く。


床石が盛り上がり、巨大な岩壁となって兄弟の間へ割り込んだ。


光の鎖が岩壁に押し潰されるように砕け散る。


拘束から解放されたオルフェウスは床へ転がり、


その勢いのまま立ち上がった。


「……驚いたな」


岩壁の向こうからハーデスの声が聞こえる。


直後。


鋭い風が岩壁を貫いた。


亀裂が一気に走り、岩塊が研究室へ飛び散る。


オルフェウスは魔導書を盾のように構え、その前へ魔法陣を展開した。


降り注ぐ岩片が見えない壁へ衝突し、次々と床へ落ちていく。


崩れた岩壁の向こう。


ハーデスが初めて、弟を興味深そうに見ていた。


「随分古い魔法形態だ」


「いつの間に、そんなものを」


「十年だよ、兄さん」


開いた魔導書のページへ魔力を流しながら立ち上がる。


「僕だって、何も変わってないわけじゃない」


「……なるほど」


ハーデスの口元が僅かに上がった。


「エルフとの交流か」


両者の周囲へ魔法陣が浮かぶ。


「面白い」


ハーデスが両手を広げる。


「ならば見せてみろ」


「この十年で、お前が何を得たのか」


「できれば」


オルフェウスも魔導書へ手を添えた。


「兄さん相手には、使いたくなかったけどね」


先に動いたのはハーデスだった。


右側に浮かぶ術式から炎弾が放たれ、左からは鋭い風刃が迫る。


オルフェウスは岩壁を斜めに隆起させ、炎弾を受け流した。


爆炎が天井へ昇る。


続く風刃へ魔導書を向ける。


魔法陣から水流が噴き上がり、風刃へぶつかった。


細かな水飛沫となって研究室全体へ降り注ぐ。


「二属性……」


ハーデスの目が細くなる。


「いや」


オルフェウスの周囲へ三つ目の魔法陣が開く。


ハーデスの足元から蔓が伸びた。


「植物は捨てていないか」


「僕の本職だからね!」


蔓が足へ絡みつく寸前、ハーデスの周囲から炎が噴き上がった。


一瞬で焼き払われる。


だが。


それは囮だった。


炎で視界が遮られた瞬間、オルフェウスは薬瓶を投げていた。


風の術式が反応し、薬瓶が空中で砕かれる。


中身が霧となり、ハーデスの周囲へ広がっていく。


「っ――」


ハーデスが咄嗟に口元を覆う。


「魔法だけ見てればいいと思った?」


オルフェウスが床を蹴った。


魔導書。


薬。


植物。


十年前にはなかった選択肢を繋ぎ合わせながら、


精霊の涙へ距離を詰めていく。


あと少し。


指先が伸びる。


「――させない!」


ハーデスが地面へ掌を向けた。


術式が収束し、見えない衝撃がオルフェウスの腹部を直撃する。


「がっ……!」


身体が大きく折れ曲がり、そのまま後方へ吹き飛ばされた。


床を滑りながら何度も身体を打ちつけ、最後は壁へ背中から激突する。


肺の空気が一気に抜けた。


「かはっ……!」


血の混じった息が漏れる。


魔導書が手から離れ、床を滑っていく。


霞む視界の先で。


ハーデスがゆっくりと近付いてきた。


「……驚いたよ、オルフェ」


その声には、先ほどまでとは違う感情が僅かに混じっていた。


「魔法と植物、それに薬か」


「昔のお前とは、まるで別人だな」


オルフェウスは震える腕で身体を起こす。


「……褒めてくれるの?」


「ああ」


「自慢の弟だからな」


ハーデスは素直に頷いた。


「だが」


床に転がった魔導書へ視線を送る。


「それでも、私には届かない」


オルフェウスは唇を噛んだ。


分かっていた。


魔導書という新しい武器を得ても。


十年以上離れていた兄との差が、簡単に埋まるはずもない。


「……もうやめろ」


ハーデスの声が静かに響く。


「十年で成長したことは認めよう」


「だが――結果は変わらない」


「お前では私に勝てない」


「……嫌だ」


「なぜ分からない」


「分かってるよ」


オルフェウスは口元の血を拭った。


「兄さんが本気なのも」


「僕じゃ勝てないのも」


「全部分かってる」


ふらつく足へ力を込める。


一度膝が落ちそうになる。


それでも。


壁へ手をつきながら、もう一度立ち上がった。


「でも――」


呼吸を整え。


兄を睨む。


「だからって、フィラを見殺しにはできない!」


ハーデスの表情から、僅かに残っていた感情が消えた。


「……そうか」


右手を上げる。


これまでとは比較にならない巨大な術式が、


研究室の天井近くまで広がった。


空気が震える。


散らばっていた紙や古文書が魔力の奔流に巻き上げられ、


室内を舞った。


オルフェウスの表情が変わる。


「兄さん……?」


「私は言ったはずだ」


巨大な術式へ、膨大な魔力が集まっていく。


「時間を無駄にはできない、と」


その光を見た瞬間。


オルフェウスには分かった。


今までとは違う。


脅しでも。


足止めでもない。


――本当に、自分を殺すつもりだ。


「さらば」


ハーデスの声は、どこまでも静かだった。


「――最愛の弟よ」


光が放たれる。


オルフェウスは反射的に鞄へ手を突っ込んだ。


残っていた最後の薬瓶。


床へ叩きつける。


激しい閃光が研究室を白く染めた。


「っ!」


ハーデスの狙いが僅かに逸れる。


だが。


避け切れない。


光はオルフェウスの腹部を貫いた。


「ぐあっ!」


鮮血が背後へ飛び散る。


身体が止まりかける。


それでも。


止まらなかった。


痛みで揺れる視界の中。


オルフェウスは一直線に兄へ走った。


「オルフェ!」


ハーデスが次の術式を展開しようと腕を伸ばす。


だが。


閃光に視界を奪われた一瞬。


それだけで十分だった。


オルフェウスが懐へ潜り込む。


その手には。


小さな刃が握られていた。


戦うための武器ではない。


旅先で薬草を摘み取るために。


何年も使い続けてきた採取用のナイフ。


「――っ!」


刃が。


ハーデスの腹部へ深く突き刺さった。


一瞬。


世界から音が消えたように感じた。


ハーデスの目が大きく見開かれる。


オルフェウスも。


自分が何をしたのか理解できないまま固まっていた。


ナイフを握る手に、生温かい血が伝ってくる。


「……」


指から力が抜けた。


刃を残したまま手を離す。


ハーデスの身体が大きく揺れる。


「兄さん……?」


赤い雫が床へ落ちた。


一滴。


続けて。


もう一滴。


「違う……」


オルフェウスの顔から血の気が引いていく。


「僕は……」


ハーデスの膝が崩れた。


「兄さん!」


咄嗟にその身体を抱き止める。


「兄さん!」


「ごめん!」


「今、薬を――」


震える手を鞄へ伸ばしかけた、その時だった。


視界の端で。


淡い光が揺れている。


――精霊の涙。


オルフェウスの動きが止まった。


脳裏に、フィラの笑顔が浮かぶ。


『オルフェがいない世界なんて』


『考えたくない』


腕の中で血を流す兄と、机の上で淡く輝く精霊の涙。


オルフェウスの視線が、その二つの間を何度も行き来する。


薬を使えば助けられるかもしれない。


だが。


その間に何が起こるかは分からない。


そして何より。


今ここで精霊の涙を取り戻さなければ。


フィラは――。


「……」


震える拳を握り締める。


やがて。


オルフェウスは兄の身体をゆっくり床へ横たえた。


「……ごめん」


ハーデスの瞳が僅かに開く。


「オル……フェ……」


「ごめん……兄さん」


涙を拭う余裕もないまま立ち上がり、精霊の涙へ駆け寄る。


淡く輝く結晶を掴み、そのまま鞄へ押し込んだ。


扉へ駆け出したオルフェウスは、研究室を出る寸前で足を止めた。


振り返った先には――


血に濡れた兄。


そして。


その傍らに立つ男。


男は戦いの最初から最後まで、一度も手を出さなかった。


ただ楽しそうに。


兄弟の殺し合いを眺めていた。


「……兄さんを」


オルフェウスが男を睨む。


「助けて」


男の眉が僅かに上がった。


「お願いだ」


「僕は行かなきゃいけない」


声が震える。


「だから……兄さんを助けて」


男は答えなかった。


その沈黙が何を意味するのか。


オルフェウスには分からない。


それでも。


今はフィラのもとへ行かなければならなかった。


唇を噛み。


研究室を飛び出す。


足音が遠ざかり。


やがて研究室には、再び静寂だけが残された。


男はしばらく閉じた扉を眺めていたが。


やがて。


血溜まりの中に倒れるハーデスへ視線を落とす。


「……困りましたね」


ゆっくりと歩み寄る。


「精霊の涙を持っていかれてしまいました」


返事はない。


ハーデスの血だけが、静かに床を濡らし続けている。


男――ペルスは、その姿を見下ろして小さく笑った。


「依頼された以上は助けますよ」


腰を落とし。


意識を失いつつあるハーデスへ顔を近付ける。


「ただし――」


楽しそうに目を細めた。


「見返りに何を求めましょうかね」


ペルスの笑みだけが。


血の匂いが満ちる研究室に、いつまでも残っていた――


【第百十三話へ続く】


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