【第百十一話】決裂
〈百年前・人間領・ハーデスの研究室〉
「――全部、本気なの?」
研究室へ重い沈黙が落ちた。
ハーデスは、目の前に立つ弟を静かに見つめている。
その顔に一瞬だけ驚きが浮かんだものの、
すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻った。
「……ああ」
否定はしなかった。
オルフェウスの拳が強く握られる。
「フィラが死ぬって分かってて?」
「ああ」
「最初から?」
「フィラが情報核を補完できると分かったのは、先日の実験だ」
ハーデスの視線が、机の上で淡い光を放つ精霊の涙へ向かう。
「だが――分かった以上、使わない理由はない」
「……っ!」
オルフェウスが一歩踏み出した。
「それじゃあ!」
「フィラを救うための研究じゃなかったの!?」
「違う」
返ってきたのは、迷いのない即答だった。
オルフェウスの表情が固まる。
「私は一度も」
「フィラ一人を救うために研究しているとは言っていない」
「……兄さん」
「私は世界を変えると言った」
ハーデスは淡々と言葉を続ける。
「二人目のフィラ」
「三人目のフィラ」
「これから先、同じ涙を流す者を生み出さないために」
僅かに目を細めた。
「私が望む平等な世界のためなら――」
ハーデスは僅かに目を細める。
「犠牲くらいは受け入れる」
オルフェウスは何も言わず、兄を睨み続けた。
やがて、震える唇から声が漏れる。
「……違うよ」
ハーデスの眉が僅かに動く。
「そんなの、フィラを救うことになってない」
「一人を犠牲にして、これから先の誰かを救うなんて」
オルフェウスは真っ直ぐ兄を見据えた。
「そんな世界を、フィラも僕も望んでいない」
「――望むかどうかは関係ない」
返ってきた声は冷たかった。
「必要かどうかだ」
オルフェウスは、それ以上何も言わなかった。
ハーデスから視線を外し、精霊の涙が置かれた机へ歩き出す。
「何をする気だ?」
「精霊の涙を返してもらう」
「それはできない」
「……なら、僕が持って帰る」
足を止めることなく手を伸ばす。
その瞬間――
鋭い光が視界を横切った。
「っ!」
反射的に身体を捻る。
光の刃は頬を浅く切り裂き、そのまま背後の石壁へ突き刺さった。
轟音とともに壁が砕け、細かな石片が研究室へ降り注ぐ。
オルフェウスには、何が起きたのか理解できなかった。
頬を伝う生温かい感触。
指先で触れると、血が付いていた。
「……兄さん?」
振り返った先で、ハーデスは右手をこちらへ向けていた。
掌の前には、淡い光を放つ術式が浮かんでいる。
「悪いな、オルフェ」
「お前を行かせるわけにはいかない」
「……本気で」
オルフェウスの瞳が揺れる。
「僕まで殺すつもり?」
「できれば殺したくはない」
ハーデスは小さく息を吐いた。
「だが、お前はフィラを止めるだろう」
「そして、私たちの邪魔をする」
「……」
「人間である以上、残された時間は少ない」
「これだけの機会を逃がす余裕もないのだ」
再び術式へ光が集まっていく。
「だから――そこを退け」
それでも、オルフェウスは動かなかった。
代わりに視線を研究室の隅へ移す。
そこでは、あの男が楽しそうに二人を眺めていた。
「……お前は」
男が僅かに首を傾げる。
「兄さんの契約精霊じゃないな」
「ええ」
あまりにも簡単に認めた。
「何者かと聞かれましても、今は答える必要もないでしょう」
「……」
「安心してください」
男は一歩後ろへ下がり、壁へ背を預ける。
「手を出すつもりもありませんから」
口元の笑みを深めた。
「どうぞ――兄弟のお話を続けてください」
オルフェウスは男を睨んだが、すぐにハーデスへ視線を戻した。
「兄さん」
「最後に、もう一度だけ言うよ」
「こんなことは、やめよう」
「精霊の涙を返して」
「フィラにも全部話す」
「それで終わりにしよう」
ハーデスは静かに首を横へ振った。
「できない」
「……そっか」
小さく息を吐いたオルフェウスは、腰の革鞄へ手を入れた。
取り出したのは、小さな薬瓶。
ハーデスが目を細める。
「オルフェ」
「お前は昔から戦いが嫌いだったな」
「……今でも嫌いだよ」
瓶を握り締めながら、オルフェウスは苦笑した。
「魔法だって、薬草を採る時に使うくらいだ」
「だったら退け」
「それもできない」
笑みが消える。
「僕は――フィラを死なせたくない」
次の瞬間、ハーデスの周囲に展開された術式が一斉に輝いた。
幾筋もの光が研究室を切り裂く。
オルフェウスは持っていた瓶を床へ叩きつけた。
瓶が砕ける。
中の薬液が空気へ触れた瞬間、濃密な白煙が爆発するように広がった。
幾筋もの光が、白煙の中へ飲み込まれていく。
その隙を逃さず、オルフェウスは精霊の涙へ向かって駆け出した。
あと数歩。
手を伸ばせば届く。
「甘い」
煙の向こうから聞こえた声と同時に、足元へ幾何学模様が走った。
「なっ――!」
床を突き破るように光の鎖が伸び、両足へ絡みつく。
勢いを殺し切れないまま身体が宙へ投げ出され、
そのまま背中から本棚へ激突した。
「ぐっ!」
積み上げられていた本や書類が頭上から崩れ落ちる。
肺から空気が押し出され、息が詰まった。
煙を裂くように、ハーデスがゆっくりと歩いてくる。
「お前の手札くらい、兄である私が知らないと思ったか?」
光の鎖が両腕まで這い上がり、身体を締め付ける。
「薬草から抽出した毒」
「魔力を乱す薬」
「煙や閃光による目眩まし」
ハーデスが右手を向けた。
「薬師としては見事だが――私には通用しない」
「……そうだね」
光の鎖に締め付けられながら。
オルフェウスは苦しそうに、それでも笑った。
「昔の僕なら」
ハーデスの眉が動く。
オルフェウスの左手が腰の鞄へ潜り込んだ。
再び薬瓶が出てくる。
そう思ったハーデスの目が、僅かに見開かれた。
「――何だ、それは」
取り出されたのは、一冊の本だった。
深緑色の装丁。
表紙には、古い術式が幾重にも刻まれている。
オルフェウスが片手で本を開いた。
「コンステラで教えてもらったんだ」
風もない研究室で、ページがひとりでに捲れていく。
「魔法って」
「植物を育てる以外にも、色々できるんだね」
魔導書が淡い光を放つ。
オルフェウスが右手の人差し指と中指を立てた。
その瞬間。
本の周囲へ複数の魔法陣が展開された――
【第百十二話へ続く】




