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【第百十話】兄の影

〈百年前・人間領・ハーデスの研究室〉


――数日後。


研究室へ続く廊下を、オルフェウスは一人で歩いていた。


「兄さん、いる?」


扉へ手を伸ばす。


その時だった。


「――随分と集まりましたね」


聞き覚えのない声に、オルフェウスの手が止まる。


(……大精霊か?)


兄の影に潜む、契約精霊。


その存在は知っていても、一度も姿を見たことがなかった。


兄に尋ねても、滅多に姿を見せないと笑うだけ。


(これはチャンスかもな)


扉の隙間から、研究室の中へ視線を向ける。


「……」


オルフェウスの表情が変わる。


隙間の先には、ハーデスがいた。


そして、その向かいに立つ存在。


兄の影からいつも感じていた魔力。


その気配を纏う存在は――人の姿をしていた。


だが。


人間ではない。


それだけではなかった。


(違う……)


コンステラへ通い始めて十年以上。


数え切れないほどの精霊たちと触れ合ってきた。


だからこそ分かる。


あの男から感じる気配は。


精霊のものではない。


(大精霊じゃない……)


胸の奥に、言いようのない違和感が生まれる。


そのまま、息を潜めるオルフェウス。


「……これだけあれば、情報核も完成するのでは?」


男が机の上へ、小さな袋を置く。


中から現れたのは、見覚えのない結晶。


古びた金属片。


そして、僅かに魔力を宿す無数の欠片。


ハーデスは一つずつ手に取り、確かめていく。


「いや……まだ足りないな」


「これでも?」


「ああ」


ハーデスは机の上に広げられた紙へ視線を落とした。


そこには三つの言葉が記されている。


――聖女。


――器。


――情報核。


聖女と器には、既に線が引かれていた。


「世界の情報は、想像していた以上に膨大だ」


「古代文明」


「失われた種族」


「精霊」


「世界中から集めた情報を繋ぎ合わせても、まだ足りない」


男は小さく笑う。


「困りましたね」


「やはり、世界樹の実が必要になりそうですね」


ハーデスは静かに首を横へ振る。


「――その必要もなくなった」


オルフェウスの目が僅かに開く。


男も同じだった。


「……ほう?」


「何か見つかったのですか?」


「ああ」


ハーデスが一枚の記録紙を取り出す。


「――フィラだ」


オルフェウスの呼吸が止まった。


「彼女が?」


「ああ」


ハーデスは淡々と続ける。


「フィラは元“レーヌ”候補」


「幼い頃から世界樹と深く繋がり、多くの精霊から愛されている」


「そして」


「代償のおかげで、始原の精霊――ハルモニアとも繋がっている」


さらに、記録の一箇所へ指を置く。


「……精霊の涙との適性」


「先日の反応を見れば明らかだ」


男が記録を覗き込む。


「なるほど……」


「世界樹の実から情報を取り出す必要などない、と」


「ああ」


「世界樹」


「精霊」


「ハルモニア」


「その全てと繋がる存在が、既に目の前にいた」


ハーデスの指が。


紙に書かれた“情報核”へ触れる。


「フィラを経由すれば」


「情報核に足りないものを補完できる」


扉の向こうで、オルフェウスの手が強く握られる。


(フィラを……?)


男は少し考え込む。


「しかし」


「彼女は既に“聖女”なのでしょう?」


「問題ない」


「聖女としてエキピュリア様を呼び起こす」


「その過程で」


「彼女を通じて世界樹とハルモニアの情報を情報核へ流し込む」


男の口元に笑みが浮かんだ。


「聖女であり、情報を引き出すための媒介にもなる、と」


「そういうことだ」


「随分と都合の良い存在が現れたものですね」


「私も驚いている」


ハーデスも僅かに笑う。


「聖女も」


「器も」


「最後の情報も」


「向こうからやって来た」


机の上には。


フィラから預かった精霊の涙が、静かに輝いていた。


男がそれを見つめる。


「ですが――」


笑みを浮かべたまま、ハーデスへ視線を戻す。


「あれほどの情報を一度に流し込めば」


「フィラは死にますよ?」


オルフェウスの目が大きく開く。


だが。


ハーデスの表情は変わらなかった。


「当然だ」


「……っ」


声が出そうになる。


咄嗟に口元を押さえるオルフェウス。


「肉体だけではない」


ハーデスは淡々と続ける。


「世界樹とハルモニアの情報を、その身を介して情報核へ流し込む」


「どれだけ精霊との親和性が高くとも」


「一つの生命が耐えられるものではない」


「では」


男が尋ねる。


「分かった上で、彼女を使うと?」


「ああ」


迷いはなかった。


「フィラ一人の犠牲で」


「この世界を変えられるなら――」


「安いものだ」


その瞬間。


オルフェウスの中で、何かが崩れた。


――兄さんはそんな人じゃない。


ずっと、そう思っていた。


誰よりも多くのことを知っていて。


自分が薬師を目指した時も、背中を押してくれた。


世界を巡る度に、知らない話を聞かせてくれた。


尊敬していた。


憧れていた。


だから。


フィラが兄と接触していたと知った時も。


最後まで信じていた。


『誰かが犠牲になるようなことは……しないよね?』


あの日。


自分は確かに尋ねた。


そして兄は。


『当たり前だろう』


そう答えた。


拳が震えるオルフェウス。


男が楽しそうに笑った。


「弟君が知れば、悲しむでしょうね」


「知らせる必要はない」


即答だった。


「オルフェは優しすぎる」


「知れば必ず止める」


「では、フィラには?」


「同じだ」


ハーデスは精霊の涙へ視線を落とす。


「必要なことだけ伝える」


「全てを知れば、迷いが生まれる」


「迷えば、オルフェに相談するだろう」


「そして」


「二人は必ず、この計画から降りる」


「なるほど」


男は満足そうに頷いた。


「ならば、何も知らないまま」


「希望だけを見ていてもらいましょう」


「その方が、フィラも幸せだ」


オルフェウスは俯いた。


(……フィラ)


今すぐ伝えなければならない。


精霊の涙を持って、コンステラへ。


ゆっくりと後ろへ下がる。


音を立てないように。


一歩。


また一歩。


あと少しで、この場を離れられる。


そう思った――その時だった。


「――ところで」


男の声が聞こえ、オルフェウスの足が止まる。


「先ほどから」


「随分と熱心に聞いている方がいますね」


背筋が凍る。


研究室の中で、ハーデスが顔を上げた。


男の視線は、真っ直ぐ扉へ向けられている。


「……誰だ?」


オルフェウスは拳を握る。


逃げることも考えた。


だが。


目の前には精霊の涙がある。


それに。


聞かなければならないことがあった。


自分の耳で。


兄の口から。


もう一度だけ。


オルフェウスは扉へ手を掛けた。


ゆっくりと開く。


ハーデスの瞳が見開かれた。


「……オルフェ?」


オルフェウスは答えない。


男を見る。


近くで見て確信する。


人ではない。


精霊でもない。


だが。


――今はどうでもよかった。


視線を兄へ戻す。


「兄さん……」


声が震える。


怒りなのか、悲しみなのか。


自分でも分からなかった。


ただ。


確かめなければならない。


「今の話」


真っ直ぐ兄の目を見る。


「――全部、本気なの?」


研究室へ。


重い沈黙が広がっていた――


【第百十一話へ続く】


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