【第百九話】三つの欠片
〈百年前・人間領・ハーデスの研究室〉
――数日後。
研究室の扉を叩く音が響く。
古文書から顔を上げるハーデス。
「どうぞ」
扉が開く。
そこに立っていたのは、オルフェウスとフィラだった。
「兄さん」
「二人揃ってとは珍しいな」
ハーデスが椅子から立ち上がる。
フィラは何も言わず、両手で抱えていた小さな箱を机へ置いた。
「……まさか」
ゆっくりと蓋が開く。
淡い光が研究室を照らした。
涙の雫のような形をした美しい結晶。
――精霊の涙。
ハーデスの瞳が僅かに見開かれる。
「これが……」
伸ばしかけた手を、触れる寸前で止める。
「本当に持ち出したのですか?」
「違うよ」
フィラが首を横へ振る。
「姉様がハルモニア様にお願いしてくれたの」
「正式に借りてきた」
「……ハルモニア様が」
僅かな沈黙の後、ハーデスは穏やかに笑った。
「そうですか」
「ラクテア様には感謝しなければなりませんね」
「ただ、期限があるの」
フィラが貸し出しの条件を説明していく。
精霊の涙を持ち出している間、寿命を代償として支払うこと。
期限内に返却できなければ、ラクテアも負荷を背負うこと。
聞いていたオルフェウスの表情が固まった。
「……寿命?」
フィラを見る。
「そんな話、聞いてないよ」
「……言ってないから」
「なんで!」
「言ったら止めたでしょ?」
「当たり前だよ!」
「フィラが寿命を削ってまでやることじゃない!」
「じゃあ!」
フィラも声を上げる。
「何もしないで待ってればいいの!?」
オルフェウスの言葉が止まる。
「私は何百年も生きるんだよ」
「その一部くらい」
「オルフェと一緒にいられる可能性のためなら惜しくない」
「これは、私が決めたことなの」
その瞳に迷いはなかった。
オルフェウスは小さく息を吐く。
「……分かった」
フィラの手を取る。
「でも、もう一人で決めないで」
「これは“僕らの”問題だって言ったでしょ?」
「……うん」
二人を見つめていたハーデスが静かに口を開く。
「ならば、なおさら時間を無駄にはできませんね」
机の上を片付ける。
「始めましょう」
研究室の床には、複雑な術式が描かれていた。
その中心へ、精霊の涙が置かれる。
ハーデスが手をかざした。
魔力が流れ込む。
淡い光が術式を伝い、一つ、また一つと線を灯していく。
だが――それだけだった。
「やっぱり……駄目なの?」
「まだ分かりません」
ハーデスは黒い箱を取り出した。
中には、古代文明の遺物や滅びた種族の魔導具、
精霊の力を宿した欠片が収められている。
「これが……情報核?」
「正確には、その一部です」
一つずつ術式の周囲へ並べていく。
「世界各地から集めたものです」
「兄さんが全部?」
「私一人で世界中を探し回れるほど、人間の寿命は長くないからな」
小さく笑う。
「協力者?」
「ああ」
それ以上は語らなかった。
再び魔力が流れ込む。
並べられた欠片が光を放ち、精霊の涙へ触れた瞬間。
――鼓動のような音が響いた。
「え……?」
精霊の涙が、生きているかのように脈打ち始める。
さらに光が強まり。
次の瞬間。
精霊の涙から伸びた光が、フィラへ流れ込んだ。
「フィラ!」
「大丈夫!」
痛みはない。
むしろ。
懐かしいものへ触れたような温かさが身体を包んでいた。
小さな精霊たちが次々と姿を現す。
精霊の涙とフィラ。
そして、周囲の情報核が呼応するように輝いていた。
ハーデスは黙ったまま、その光景を見つめる。
「……なるほど」
「兄さん?」
答えず、机へ戻る。
一枚の紙を広げる。
三つの円。
――聖女。
――器。
――情報核。
ハーデスは“器”の文字へ線を引いた。
「精霊の涙は」
「エキピュリア様の力を宿す器として、十分な可能性があります」
「本当に!?」
「ええ」
そして、フィラを見る。
「それだけではありません」
「精霊の涙だけでは、先ほどの反応は起きなかった」
ハーデスがフィラを見る。
「あなたが触れたことで、周囲の精霊まで呼応した」
「聖女としての条件を満たしている可能性は高いでしょう」
「“レーヌ”候補だったからでしょうか」
フィラの問いに、僅かに間を置くハーデス。
「――可能性はあります」
フィラの表情が明るくなる。
「オルフェ!」
「まだだよ」
オルフェウスは優しく笑う。
「兄さんも可能性って言っただけだ」
「分かってる」
そう言いながらも。
フィラの顔には、久しぶりに心からの笑顔が浮かんでいた。
「今日はここまでにしましょう」
精霊の涙を箱へ戻し、フィラへ差し出す。
「これはあなたが持っていてください」
「ハーデスさんは持ってなくていいの?」
「もちろん」
「ラクテア様とハルモニア様が、あなたへ貸したものですから」
フィラは大切そうに箱を抱えた。
「次までに、今日の結果をまとめておきます」
「うん!」
二人が扉へ向かう。
だが。
オルフェウスだけが足を止めた。
「兄さん」
「なんだ?」
「……本当に、大丈夫なんだよね?」
ハーデスが弟を見る。
「兄さんの研究」
「フィラも」
「ラクテアさんも」
「誰かが犠牲になるようなことは……しないよね?」
短い沈黙。
ハーデスは穏やかに笑った。
「当たり前だろう」
「私は世界を変えたいだけだ」
「誰かを不幸にしたいわけではない」
「……そうだよね」
「変なこと聞いてごめん」
「気にするな」
扉が閉まる。
二人の足音が遠ざかっていく。
静寂が戻った研究室。
ハーデスは机の紙を見つめる。
――聖女。
――器。
――情報核。
指先で“聖女”へ触れ。
“器”と同じように、静かに線を引いた。
「……二つ」
その時。
ハーデスの影が僅かに揺らぐ。
「――予想以上ですね」
声が響く。
ハーデスは驚かなかった。
「見ていたのか」
「ええ」
影の中から、ゆっくりと人影が姿を現す。
人の形をしている。
声も、表情も。
それだけを見れば、人間と変わらない。
なのに。
影から現れたその男には、どこか生き物らしさが欠けていた。
「――精霊の涙」
その者は楽しそうに笑う。
「まさか、向こうから持ってきてくれるとは」
「私も想定していなかった」
「世界樹の実を調べられれば十分だと思っていたからな」
ハーデスが紙へ視線を戻す。
「聖女も」
「器も」
「これで揃った」
人影の視線が、最後の文字へ向かう。
――情報核。
「こちらは?」
「まだ足りない」
「世界の情報が不足している」
「今あるものでは……」
「エキピュリア様を完全な形で呼び起こすには不十分だ」
「なるほど」
人影は静かに笑った。
「では、もう少し集めてきましょう」
ハーデスが顔を向ける。
「頼めるか」
「もちろん」
男は笑みを浮かべた。
「私にも」
「エキピュリア様には目覚めてもらわなければ困りますから」
二人の視線が交わる。
「頼んだぞ」
「――ペルス」
ペルスは答えない。
ただ。
楽しそうに笑っていた。
机の上には三つの言葉。
聖女。
器。
そして――情報核。
最後の一つだけが。
未だ、欠けたまま残されていた――
【第百十話へ続く】




