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【第百八話】姉の願い

〈百年前・星詠王国コンステラ〉


――翌朝。


ラクテアは、一人で世界樹の前に立っていた。


朝靄に包まれる森。


まだ日も昇りきっていない。


精霊たちも、どこか眠たそうに木々の間を漂っている。


ラクテアは静かに世界樹の幹へ手を添えた。


「……ハルモニア様」


目を閉じ、魔力を流し込む。


世界樹の根が淡く輝きだしていく。


――その光は、ゆっくりとラクテアを包み込んでいった。


〈世界樹・根の流路〉


無数の精霊流が星空のように流れている。


ラクテアは、その中を一人で歩いていた。


やがて。


大きな根の上に座る女性の姿が見えてくる。


始原の精霊――ハルモニア。


「やはり来ましたね」


穏やかな声が響いた。


「一人で来るのは予想外でしたが」


ラクテアはハルモニアの前へ歩み寄る。


「ここは、誰でも来ていいとは思っていませんので」


ラクテアを見つめるハルモニア。


「なるほど」


「……今は“レーヌ”としてここにいるのですね」


その問いに答える代わりに、ラクテアは静かに頭を下げた。


「お願いがございます」


その言葉に、ハルモニアの表情が僅かに変わる。


「……聞きましょう」


ラクテアは顔を上げる。


「精霊の涙を」


「一時的に、貸し出していただけないでしょうか」


静寂が広がり、精霊流が流れる音だけが響いている。


ハルモニアはすぐには答えなかった。


「理由を聞いても?」


「妹のためです」


ラクテアは何一つ隠さなかった。


フィラ。


オルフェウス。


寿命の違い。


精霊王エキピュリア。


そして。


一人の研究者が、その存在を追っていること。


昨夜、フィラから聞いたことを、何一つ隠さず伝えた。


話を聞き終えたハルモニアは、静かに目を閉じる。


「……世界の理を書き換える」


「危険な考えですね」


「承知しております」


「なら」


ハルモニアがラクテアを見つめる。


「なぜ?」


ラクテアは少しだけ俯いた。


「……昨日」


「私は、“レーヌ”として妹を止めました」


「それは正しい判断です」


「はい」


迷いなく頷く。


「今でも、間違っているとは思っていません」


一度、深く息を吸うラクテア。


「ですが……姉として」


声が僅かに震えた。


「何もしてやらないまま諦めなさい、と言うことが」


「どうしてもできませんでした」


ハルモニアは黙って聞いている。


「精霊の涙にそのような力がないことも知っています」


「精霊王エキピュリア様を呼び起こすことが」


「どれだけおこがましいのかも知っています」


「ですが」


「何もしないままオルフェの死を迎えれば――」


ラクテアは目を伏せる。


「あの子が、その先ずっと笑えなくなる未来が」


「――“見えてしまった”のです」


「……星詠みですか」


ラクテアの話を聞き、考え込むハルモニア。


(この子の星詠みは、歴代の“レーヌ”の中でも優れています)


(それに――)


(エキピュリア様が眠りについてから長い時間が経っています)


(ですが……)


「……ラクテア」


ハルモニアの声が少しだけ低くなる。


「私も、精霊たちも……あの子の笑顔は好きですよ」


「ですが」


「精霊の涙が、なぜ歴代の“レーヌ”へ受け継がれているのか」


「理解していますね?」


「はい」


ラクテアは頷く。


「精霊の涙は、ただの秘宝ではありません」


ハルモニアが静かに告げる。


「世界樹と私」


「――そして“レーヌ”」


「その三者を繋ぎ、負荷を分かち合うためのものです」


「精霊の涙が“レーヌ”の手元を離れれば」


ハルモニアが続ける。


「私は今までのように、安定して世界樹と繋がることができません」


「私の役目は、あくまで世界樹の管理と調和を守ることです」


「精霊の涙がなければ、その負荷は“レーヌ”がすべてを受け止めます」


ラクテアは静かに頷いた。


「承知しております」


「一日や二日なら問題ないでしょう」


「ですが」


ハルモニアの目が細くなる。


「長くなれば」


「あなたの身体は確実に蝕まれます」


それでも。


ラクテアの表情は変わらない。


「それでも、お願いします」


「……あくまで姉なのですね」


ハルモニアが小さく微笑んだ。


「はい」


ラクテアも微笑む。


「“レーヌ”である前に――私は、あの子の姉ですから」


再び静寂が訪れる。


「……世界の理を書き換えることを、私は認めるつもりはありません」


「ですが……」


ハルモニアの言葉にラクテアが顔を上げる。


「異なる種族が手を取り合うようになった以上」


「その間に生まれる痛みもまた」


「私が見守るべき調和の一部なのでしょう」


「エルフと人間の交わり」


「――これも、一つの調和の先にある必然なのでしょう」


ラクテアの目が開く。


「精霊の涙を一時的に貸し出しましょう」


「ただし、条件があります――」


〈星詠王国コンステラ・レーヌの間〉


その日の夜。


フィラは再びラクテアの部屋へ呼ばれていた。


「姉様?」


机の上には。


見慣れない箱が置かれている。


ラクテアは、その箱へ手を添えた。


「ハルモニア様へ相談しました」


フィラの目が大きく開く。


「え……?」


「精霊の涙を」


「一時的に貸し出していただけることになりました」


フィラは言葉を失った。


「……本当に?」


「ええ」


「ただし」


ラクテアの表情は真剣だった。


「条件があります」


箱がゆっくりと開く。


内部から、淡い光が溢れ出した。


涙の雫のような形をした、美しい結晶。


――精霊の涙。


フィラは息を呑んだ。


「精霊の涙は」


「ハルモニア様の役目を全うするために必要なものです」


「これを持ち出す以上、代償は必要になります」


ラクテアはフィラを真っ直ぐ見つめた。


「借りるのは、あなたです」


「だから」


「代償は、あなたが負わなければなりません」


「……何を?」


短い沈黙。


「寿命です」


フィラは驚かなかった。


ただ。


静かに精霊の涙を見つめていた。


「どれくらい?」


「持ち出している間」


「精霊の涙は、あなたの生命力と繋がります」


「期限を越えれば」


「少しずつ、あなたの寿命を代償として奪っていくでしょう」


ラクテアの手が僅かに震えていた。


「怖いですか?」


フィラは首を横へ振る。


迷いはなかった。


「構わない」


「私は長命種だよ」


笑顔を向けるフィラ。


だが。


その笑顔には覚悟が滲んでいた。


「オルフェより何百年も長く生きるなら」


「その一部くらい」


「いくらでも渡せる」


ラクテアは目を伏せる。


「……そう言うと思っていました」


「だからこそ」


「もう一つ、条件を付けました」


フィラが首を傾げる。


ラクテアは静かに続ける。


「期限内に返却ができなかった場合」


「――代償はあなたと私で引き受けます」


フィラの表情が固まった。


「……え?」


「姉様?」


「“レーヌ”として」


「私自身が、世界樹とハルモニア様を繋ぎます」


「その負荷を私も請け負います」


「ダメ!」


フィラが立ち上がる。


「それは私の問題でしょ!」


「だからです」


ラクテアは優しく笑った。


「あなた一人の問題にはさせません」


「責任とはこういうものなのです」


「でも!」


「私は“レーヌ”である前に、姉ですよ?」


「一人で抱え込まないでください」


言葉が出なくなるフィラ。


ラクテアは箱から精霊の涙を取り出した。


その光を、フィラの両手へ静かに預ける。


「期限は必ず守ってください」


「あなたのためにも」


「私のためにも」


「そして」


「この世界のためにも」


フィラは震える手で精霊の涙を抱いた。


「……絶対に」


「絶対に返す」


「約束する」


ラクテアは微笑んだ。


「ええ」


「信じていますよ」


精霊の涙が。


二人の間で静かに輝いていた。


それは。


姉が妹へ託した、一つの希望。


そして。


百年先まで続く代償の始まりでもあった――


【第百九話へ続く】


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