【第百六話】届かぬ願い
〈百年前・星詠王国コンステラ〉
コンステラへ戻ったフィラは、レーヌの間を訪れていた。
いつもなら、扉を開ける前に深呼吸などしない。
けれど今日は違う。
胸の奥が重かった。
静かに扉を叩く。
「姉様……いる?」
「――どうぞ」
落ち着いた声が返ってくる。
部屋へ入ると、ラクテアは机いっぱいに積まれた書類へ
目を通していた。
レーヌとなって十年。
今や彼女は、世界樹を守る長として、多くの責務を背負っていた。
フィラの表情を見たラクテアは、すぐに筆を置く。
「……せっかくなら星でも見ましょうか」
バルコニーに視線を送るラクテア。
「ハーブティーを新しく調合したんですよ」
ハーブティーを用意しているラクテアを見つめるフィラ。
「……前のも好きだったよ?」
「季節やその年の出来栄えでいくらでも変わりますから」
「……必要な変化というのもあるのです」
お湯を魔法で用意し、ポットに注いでいく。
いつものカップを取り出し、バルコニーへ足を運ぶ。
バルコニーには、いくつかの植物が育てられていた。
いくつもの花にハーブ。
だが、それよりも。
満天の星空が主役を奪っていた。
「……綺麗」
小さく呟くフィラ。
「……今日は特に綺麗に見えますね」
椅子に座るラクテア。
ラクテアがカップにハーブティーを注ぎ、フィラに手渡す。
「身体を冷やしてもいけませんからね」
「……それに、落ち着くにはちょうどいいでしょう」
フィラは、ラクテアと並んで椅子へ腰掛ける。
「ありがとう」
ゆっくりと口に運ぶ。
「……おいしい」
「これも好きかも」
「……よかった」
「フィラを思って調合したのです」
カップを両手に、星を見上げる二人。
虫の音だけが響いていた。
「――さて」
フィラを見つめ、静かに口を開くラクテア。
「そんなに怖い顔をして何があったのですか」
ラクテアとフィラ。
二人の視線が重なっていた。
そして、ゆっくり話し始めるフィラ。
ハーデスと出会ったこと。
精霊王エキピュリア。
世界を書き換えるという理。
そして――
精霊の涙。
全てを。
何一つ隠さず話した。
ラクテアは一度も遮らなかった。
ただ静かに聞いていた。
長い沈黙。
やがて、ラクテアは小さく息を吐いた。
「……苦しかったですね」
その言葉に。
張り詰めていたものが切れた。
フィラは俯く。
「私……」
「どうすればいいのか分からなくて」
ラクテアはフィラをそっと抱き寄せた。
「一人で抱え込まないでください」
「あなたは昔から、優しすぎます」
肩が震える。
「姉様……」
しばらくの間。
誰も何も言わなかった。
ただ姉妹として寄り添う時間だけが流れていく。
やがて。
ラクテアは静かに身体を離した。
その表情は。
姉ではなく。
“レーヌ”の顔だった。
「ですが」
「その計画を認めることはできません」
フィラは目を瞑り俯いてしまう。
「どうして?」
「オルフェが救われるかもしれないんだよ?」
ラクテアは静かに首を横へ振った。
「……本当は、あなたも分かっているのでしょう?」
静かに頷くフィラ。
優しく話し続けるラクテア。
「世界を書き換えるという行為は」
「調和そのものを書き換えることです」
「それは誰にも許されません」
「――変えてはならない理があります」
フィラは拳を握る。
「でも!」
「調べるだけなら!」
「精霊の涙を見せるだけなら!」
ラクテアは優しく微笑んだ。
その笑顔が。
かえって残酷だった。
「精霊の涙は」
「世界樹の役目を全うするために、必要なものです」
「歴代のレーヌが命を懸けて守り続けてきた」
「――秘宝なのです」
「外へ持ち出すことも」
「誰かへ預けることも」
「許されません」
「ハルモニア様より授かったものは」
「ハルモニア様の意思なく動かしてはならないのです」
フィラは唇を噛む。
「……なら」
「ハルモニア様に相談だけでも……」
「姉様なら何とかできるでしょ?」
「“レーヌ”なんだから!」
ラクテアは目を閉じた。
そして。
ゆっくり首を横へ振る。
「フィラ」
「願いや想いは、人を強くします」
「ですが」
「それだけで世界を変えてはいけません」
「摂理を無理やり曲げた先にあるものは」
「幸せではなく」
「新しい悲しみです」
フィラは立ち上がる。
涙を拭いながら。
「……姉様には分からないよ」
ラクテアの肩が、小さく震えた。
「オルフェは」
「毎年、毎年歳を取っていく」
「でも私は何も変わらない」
「一緒に笑って」
「一緒に約束して」
「それでも最後には、一人だけ残されるんだよ!」
部屋へ沈黙が落ちる。
「ですが」
「異なる寿命を持つ者を愛するということは」
「必要不可欠な覚悟ではありませんか」
「少なくとも」
「――オルフェは受け入れている」
「私にはそのように見えていますよ」
ラクテアの言葉に、返す言葉が見つからなかった。
“違う!”――そう言いたのに。
――言うことができなかった。
フィラは静かに扉へ向かう。
「ごめん」
「でも私は」
「まだ諦められない」
「――私は、オルフェがいない世界を考えたくないの」
扉が閉まる。
一人残されたラクテア。
満天の星空の下には、静かに揺れる世界樹。
ラクテアは世界樹へ向かって、小さく祈るように目を閉じた。
「ハルモニア様……」
「どうか、あの子をお導きください」
「どうか……」
「これ以上、道を違えませんように」
世界樹は何も答えない。
ただ。
風だけが静かに枝葉を揺らしていた――
【第百七話へ続く】




