【第百五話】交わる願い
〈百年前・人間領・ハーデスの研究室〉
――翌日。
フィラはハーデスに案内され、一軒の古びた研究小屋を訪れていた。
中へ足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑む。
壁一面を埋め尽くす本棚。
積み重ねられた古文書。
世界地図に植物標本や鉱石。
「……すごい」
フィラは思わず呟いた。
「全部、ハーデスさんが集めたの?」
「ええ」
「二十年以上、世界を歩いてきましたから」
フィラは静かに本棚へ近付く。
見たこともない文字。
知らない国の地図。
知らない歴史。
ハーデスは一冊の分厚い古文書を机へ置いた。
「昨日お話しした"精霊王"についてです」
慣れた手つきで、あるページを開く。
そこには古い文字と、一枚の挿絵。
始原の精霊たちが、一つの光へ跪いていた。
「これが……」
「精霊王?」
ハーデスは頷く。
「名は――エキピュリア」
その名が、静かな研究室へ響いた。
「始原の精霊を束ね、この世界を管理していたとされる存在です」
「文献によって呼び名は違いますが、示す存在はどれも同じでした」
フィラは挿絵を見つめたまま呟く。
「……こんな存在、本当にいたんだ」
「私はいた、と考えています」
ハーデスは別の紙を取り出す。
そこには三つの円が描かれていた。
一つ目へ印を付ける。
「まず必要なのは、聖女」
「精霊との親和性を持ち、その力を呼び起こす存在です」
二つ目。
「次に器」
「エキピュリアの力を宿す器です」
三つ目。
「そして情報核」
聞き慣れない言葉だった。
「情報核?」
「魂とは少し違います」
「世界そのものの情報」
「存在そのものを構成する核」
ハーデスは苦笑した。
「私もまだ完全には理解できていません」
「世界中を歩き、情報になり得るものを集め続けました」
机の上へ、小さな結晶や古い欠片を並べる。
「ですが……」
首を横へ振る。
「こんなものでは足りない」
「世界そのものの情報が欠けています」
フィラは静かに聞いていた。
「だから私は」
「世界樹を調べたいのです」
「世界樹……?」
「ええ」
「この世界で最も世界へ広がっている存在ですから」
「……特に、世界樹の実」
「あの実には、世界樹の情報が詰まっていると考えています」
「情報核の欠けた部分を補える可能性があります」
フィラは少し考え込む。
そして。
ゆっくり顔を上げた。
「世界樹の実より……」
ハーデスが視線を向ける。
「もっと始原の精霊に近いものがあるよ」
空気が止まる。
「……何でしょうか」
「――精霊の涙」
その名前を聞いた瞬間。
ハーデスの手が止まった。
「……精霊の涙?」
「うん」
フィラは頷く。
「代々、“レーヌ”へ受け継がれる秘宝なの」
「エルフでも、ごく一部しか知らない」
「世界樹じゃなくて」
「始原の精霊――ハルモニア様から授かるものなんだ」
沈黙が部屋を包む。
ハーデスは静かに目を閉じていた。
頭の中で、今まで集めた文献が繋がっていく。
――全てが一本の線になろうとしていた。
だが、その感情を表へ出すことはなかった。
「……なるほど」
静かに呟くハーデス。
フィラは続ける。
「“レーヌ”しか触れられない宝物だけど……」
「調べるだけなら、姉様にお願いできるかもしれない」
手を顎に当てて考え込むハーデス。
「……ですが、それは」
「外部の、しかも人間に見せれるものなのでしょか」
顔を伏せるフィラ。
「……厳しいと思う」
「普段から厳重に保管されているから」
「でも……頼み込んでみようかな」
ハーデスは静かに首を横へ振る。
「いえ――この案はまだ仮説に過ぎません」
「精霊の涙には、とてもそそられますが……」
「手元に置けない以上、代替となるものを探すしかないでしょう」
そう言って文献を閉じる。
フィラは黙っていた。
「……でも」
「もし、本当に可能性があるなら」
「――私は諦めたくない」
ハーデスは答えなかった。
ただ。
一枚の古文書を静かにフィラの前へ置く。
そこには、古代文字で一文だけ記されていた。
『世界は、一つの願いから姿を変える』
その言葉を見つめるフィラ。
「……調べるだけなら」
小さく呟く。
「何も、悪いことじゃないよね」
その願いが。
希望なのか。
それとも破滅なのか。
まだ、誰にも分からなかった――
【第百六話へ続く】




