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【第百四話】戻れない道

〈百年前・星詠王国コンステラ〉


――ハーデスと別れてから数日。


フィラは、毎日のように精霊紙を開いていた。


机の上には二枚の精霊紙。


一枚は、オルフェウスと繋がるもの。


もう一枚は、ハーデスと繋がるものだった。


迷うことなく手を伸ばしたのは、いつもオルフェウスの精霊紙だった。


『無事に西の町へ着いたよ』


『珍しい青い薬草を見つけた』


『今度コンステラへ持っていくね』


思わず笑みがこぼれる。


フィラも筆を取る。


『楽しみにしてる!』


『こっちは森の花が咲き始めたよ』


『姉様が忙しそうだから、また薬草採り付き合ってね』


文字を書き終える。


精霊が紙へ降り立つ。


小さな光となって、文字を乗せたまま飛び立っていく。


「便利だなぁ……」


思わず呟いた。


数日後には返事が届く。


会えない時間も、どこか一緒にいるような気がした。


やがて。


再び文字が浮かび上がる。


『次にコンステラへ行けるのは一か月くらい先になりそう』


『親友の結婚式に呼ばれているんだ』


『面白い奴だから、今度会ったときに話するね』


『少し待たせちゃうけどね』


フィラは優しく笑う。


『うん』


『待ってる』


『オルフェの親友なら、破天荒なことしてそうだし』


少し考えてから。


『人間の結婚式って、どんな感じなの?』


書いて、また筆が止まる。


『……オルフェも、いつか結婚したいって思う?』


そこまで書いてから、慌てて消す。


「……何書いてるんだろ、私」


頬が熱くなる。


けれど。


消したはずの言葉だけが、胸に残っていた。


――結婚。


共に生きる未来を約束するもの。


けれど。


その未来を思い描いた瞬間。


別の言葉が、胸へ刺さった。


“一か月”。


フィラの表情から、笑みが消える。


エルフにとっては短い時間。


けれど――


人間にとっては。


オルフェにとっては。


決して短くない時間。


オルフェの変化。


ラクテアの言葉。


ハーデスの言葉。


全部が頭を過る。


「……」


視線が自然と、もう一枚の精霊紙へ向いた。


何度も手を伸ばしては止める。


その繰り返し。


静寂が部屋を包む。


「……ごめんね」


不意に言葉がこぼれてしまう。


誰へ向けた言葉だったのか。


――自分でも分からなかった。


フィラはゆっくり筆を取る。


『あの日のお話を聞かせてください』


短い一文。


震える手で書いた文字は、それだけだった。


それでも、心臓の音が鳴り響く。


小さな精霊が舞い降りる。


文字を乗せ、空へ飛び立っていく。


今なら取り消すこともできた。


だが。


フィラは、その姿を最後まで見送っていた。


――翌日。


ハーデスからの返事はすぐに届いた。


『承知しました』


『今日、日没』


『前と同じ高台で』


それだけだった。


――夕暮れ。


世界樹を望む高台にたどり着く。


橙色へ染まる空を背に、ハーデスはそこに立っていた。


ハーデスは小さく笑みを浮かべる。


「来てくれたんですね」


フィラが息を一つ吐く。


「会うべきではない」


「――そんな気はしています」


静かな言葉だった。


「……それでも」


「私は知りたいんです」


「オルフェは老いていく」


「……私を置いて」


ハーデスは少し目を閉じる。


風が吹く。


森が揺れる。


「本当に?」


その問いは優しかった。


だからこそ。


重かった。


「はい」


迷いなく頷くフィラ。


「オルフェと……」


「ずっと一緒にいたいんです」


ハーデスは静かに世界樹を見つめる。


「その願いは、とても自然なものです」


「誰も責める資格はありません」


フィラの瞳が揺れた。


ラクテアは否定しなかった。


だが、“叶わない”と言った。


ハーデスは違った。


願いそのものを肯定してくれた。


「私は研究者です」


「事実だけを追い続けてきました」


「そして、一つだけ確信していることがあります」


振り返る。


その瞳は、穏やかなままだった。


「この世界には」


「まだ誰も解き明かしていない領域があります」


「古代文明」


「始原の精霊」


「そして――精霊王」


初めて聞く言葉だった。


「精霊……王?」


「“レーヌ”の候補者だったあなたでも知らないのですね」


「――始原の精霊たちを束ねる存在です」


「世界そのものへ干渉できる、唯一の存在」


フィラは息を呑む。


ハーデスは続ける。


「古い文献には、こう記されています」


「精霊王が再び世界へ降り立つ時」


「世界は新たな理へ導かれる、と」


「……理」


「世界の理」


「命も」


「寿命も」


「全てを含めて――」


フィラは思わず一歩踏み出した。


「それじゃあ……!」


ハーデスは静かに頷く。


「理論上は」


「寿命という理さえ、書き換えることは可能です」


フィラの瞳に、涙が滲む。


「本当に……?」


ハーデスは少しだけ笑った。


「だから私は研究を続けています」


「ですが」


「これは、まだ仮説に過ぎません」


「証明されたものではない」


「だから――忘れてください」


「理論が確定するその日まで」


「危険な存在かもしれない」


「邪の道かもしれない」


「弟の大切な人を巻き込むことはできません」


そう言って背を向ける。


「待ってください!」


フィラの声が響く。


ハーデスは立ち止まる。


「私は……」


拳を強く握る。


迷いはあった。


恐れもあった。


それでも。


初めて見えた希望が、それらを上回っていた。


「ただ待っていることはできないの!」


「オルフェもあなたも時間は長くない」


「私は――」


「オルフェと生きていけるなら」


「どんな道でも進んでいける!」


少しだけ空を見上げるハーデス。


「この先は……」


「一度立ち入ったら、もう戻れませんよ」


「それでもいいのですね?」


フィラは、まっすぐにハーデスを見つめ返す。


その瞳に、迷いはなかった。


「……分かりました」


ハーデスは、静かに微笑んだ――


【第百五話へ続く】


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