【第百三話】届く言葉
〈百年前・星詠王国コンステラ〉
――数日後。
フィラは、一人で森の高台へ足を運んでいた。
枝葉の隙間から見える世界樹。
その雄大な姿を、ただ静かに見つめている。
精霊たちも心配そうに周囲を漂っていた。
「……ごめんね」
「今日は遊ぶ気分じゃないの」
小さく笑ってみせる。
けれど。
その笑顔は、以前のようには輝いていなかった。
その時だった。
「――失礼」
穏やかな声が背後から聞こえる。
振り返ると、一人の男が立っていた。
落ち着いた雰囲気を纏う人間。
目尻には歳月を感じさせる皺。
髪には白髪も混じっている。
それでも。
知性を感じさせる柔らかな眼差しは、どこか安心感を与えていた。
「ここは景色が良いですね」
「――少し、お隣いいですか?」
「……どうぞ」
男は礼を言い、少し距離を空けて腰を下ろした。
同じように世界樹を見上げる。
しばらく。
言葉はなかった。
風が森を抜ける音だけが響く。
やがて男が小さく微笑む。
「立派な世界樹ですね」
「ええ」
「コンステラの誇りですから」
静かに答えるフィラ。
男は頷く。
「弟がお世話になっていると聞いています」
「……弟?」
「オルフェウスです」
その名前に、フィラの目が大きく開いた。
隣に座っている男を見つめる。
「……もしかして」
「お兄さん?」
男は穏やかに笑う。
「初めまして」
「ハーデスと申します」
「オルフェウスの兄です」
フィラも慌てて頭を下げた。
「初めまして!」
「フィラです!」
「こちらこそ、オルフェには、いつも仲良くしてもらっています」
「弟が随分楽しそうに君の話をするものだから、一度お会いしたくて」
その言葉に、少しだけ頬が熱くなる。
「そんなに話してるんだ……」
「ええ」
「植物が好きで」
「精霊にも愛されていて」
「よく笑う子だ、と」
思わず照れてしまうフィラ。
「なんだか恥ずかしいな」
二人の間に、小さな笑いが生まれた。
やがて。
ハーデスが世界樹へ視線を向けたまま口を開く。
「弟から聞きました」
「君は世界樹や精霊についても随分詳しいそうですね」
「少しだけです」
「姉様や神官長のみんなに教えてもらいましたから」
「ラクテア様ですね」
「ええ」
「今は“レーヌ”です」
ハーデスは静かに頷く。
「“レーヌ”ですか……」
「文献でも何度か名を見ました」
「初代コンステラ女王の名前を受け継いでいる」
「素敵な文化です」
フィラがまた目を開く。
「そんなことまで知ってるんですか!」
「私は古代文明や精霊について研究しているんです」
「世界各地を巡って、古い書物を集めたりね」
フィラは思い出す。
オルフェウスが誇らしそうに話していた姿が脳裏を過った。
「だから――オルフェが尊敬してるんだ」
「買いかぶりですよ」
苦笑するハーデス。
「私は知りたいだけなんです」
「この世界の真実を」
その横顔は、とても穏やかだった。
だからこそ。
フィラは自然と尋ねてしまう。
「ハーデスさんは……」
「何歳なんですか?」
「四十二ですよ」
「えっ……」
思わず見つめてしまう。
オルフェウスより確かに年上だ。
だが。
五年後。
十年後。
オルフェも、この姿へ近付いていく。
そんな未来が頭を過る。
ハーデスは苦笑した。
「最近は長旅をすると腰も痛くてね」
「若い頃は平気だったんですが」
「本を読むにも、明るい場所を探すようになりました」
自嘲気味に笑う。
「これも歳ですよ」
フィラは笑えなかった。
オルフェにも。
いつか同じ日が来る。
その想像が、胸を締め付ける。
ハーデスは静かに続けた。
「人間は短命を受け入れて生きていくしかありません」
「寿命は、種族の壁を越えられないですからね」
その言葉が、フィラの胸に刺さる。
「私は……」
「ずっと一緒にいたいだけなのに」
小さく漏れた本音。
ハーデスは否定しなかった。
励ましもしなかった。
ただ静かに聞いていた。
やがて。
ゆっくりと立ち上がる。
「私は研究者です」
「古代文明も」
「精霊も」
「この世界は神秘で溢れています」
「そして」
「――まだ解き明かされていないものも、数多く残されています」
フィラが顔を上げる。
「……じゃあ」
「何か方法があるんですか?」
ハーデスは少しだけ空を見上げた。
そして。
静かに口を開く。
「もし――」
「その運命を変える方法があるとしたら」
フィラの瞳が揺れる。
しかし。
ハーデスは首を横へ振った。
「……忘れてください」
「研究者の独り言です」
ゆっくりと立ち上がるハーデス。
「あぁ……忘れるところでした」
鞄の中から二枚の皮紙を取り出し、フィラに渡す。
「……これは?」
首を傾げながら皮紙を見つめる。
「精霊紙と呼ばれています」
「最近、ドワーフの谷で作られた発明品ですよ」
「精霊の力を、もっと身近なものへ」
「――そんな発想から作られたそうです」
「精霊に文字を託し、対となる精霊紙へ届ける仕組みです」
「一枚の対は、オルフェが持っていますよ」
目を輝かせるフィラ。
「私は二人を応援していますから」
精霊紙を大事に抱える。
手元の精霊紙を見つめて考え込むフィラ。
「……一枚がオルフェとのなら」
「もう一枚は?」
笑みを浮かべるハーデス。
「そっちの対は私が持っています」
「――何か困ったことがあればいつでも聞いてきてください」
「研究者にできることなら、お力になりますよ」
その後、森の中へ姿を消していくハーデス。
一人残されたフィラ。
頭の中では。
あの言葉だけが何度も繰り返されていた。
――運命を変える方法。
その言葉は、確かにフィラへ届いていた――
【第百四話へ続く】




