【第百二話】約束の花
〈百年前・星詠王国コンステラ〉
――それから、さらに十年。
オルフェウスは変わらずコンステラへ通い続けていた。
薬草を求めて。
精霊を知るために。
そして――
「フィラ!」
「オルフェ!」
互いの姿を見つけるだけで笑みがこぼれる。
そんな日々が、当たり前になっていた。
森を歩きながら、オルフェウスが一冊の本を取り出す。
「今回はね」
「海沿いの町へ行ってきたんだ」
「――海!」
フィラが目を輝かせる。
「本では見たことある!」
「でも、本物は見たことない!」
「綺麗だったよ」
「どこまでも青くて」
「風が潮の匂いを運んできて」
「波の音だけがずっと聞こえるんだ」
フィラは想像するように目を閉じた。
「いいなぁ……」
「それだけじゃないよ」
オルフェウスが笑う。
「魚や動物も独自の生物がたくさんいるんだよ」
「クジラとかね」
「クジラ?」
「海で一番大きな生き物なんだ」
「木より大きいものもいる」
フィラが目を丸くする。
「木よりも!?」
「世界樹よりは!?」
「はは――さすがにそこまで大きくないよ」
「でも――どこかにはいるかもね」
「クジラはね、潮を高く吹き上げて」
「時々、大きく海から跳ねるんだ」
「昔は海を旅する人たちから、守り神なんて呼ばれていたらしいよ」
フィラは見たことがない生物に、完全に心を奪われていた。
「見たい……!」
「すごく見たい!」
オルフェウスは少し照れ臭そうに笑う。
「じゃあ――」
「今度、一緒に見に行こうか」
「本当!?」
「うん」
「シドーっていう港町があるんだ」
「そこで、海以外にも見せたいものがあるんだ」
既に、目を輝かせているフィラ。
「何があるの!?」
「領主様のお屋敷に、とても綺麗な庭園があるんだ」
「庭園?」
「海を見渡せる東屋があってね」
「人も少なくて、すごく静かな場所なんだ」
「そこから見る夕日が、本当に綺麗でさ」
フィラは嬉しそうに笑う。
「そんな場所があるんだ」
「――それにね」
オルフェウスは少しだけ声を弾ませた。
「その庭園には、七年に一度だけ咲く花があるらしい」
「七年?」
「そんな花あるの?」
「僕もまだ見たことない」
「ちょうど数年後が咲く年なんだ」
「――庭園いっぱいに咲くらしいよ」
フィラは目を輝かせる。
「行きたい!」
「海も!」
「クジラも!」
「その花も見たい!」
オルフェウスは笑った。
「じゃあ約束」
「花が咲く年になったら」
「一緒にシドーへ行こう」
フィラも笑顔で頷く。
「約束!」
二人は小指を絡めた。
それは。
誰にも知らない。
二人だけの約束だった。
その帰り道。
森を歩くオルフェウスの横顔を見つめていたフィラの足が止まる。
風が吹いた。
前髪が揺れる。
そこには。
十年前にはなかった白い髪が、いくつも混じっていた。
目尻にも、小さな皺が刻まれている。
「フィラ?」
立ち止まった彼女を見て、オルフェウスが振り返る。
「どうしたの?」
「オルフェってまだ若いんだよね?」
「あはは、何その質問」
「若いよ?」
「そんなおじさん扱いしないでよ」
「……そっか」
フィラは笑う。
「ならいいの!何でもない!」
だが――その笑顔は少しだけぎこちなかった。
〈星詠王国コンステラ・レーヌの間〉
――数日後の夜。
滞在を終えたオルフェを見送ったフィラ。
その足で、ラクテアの部屋を訪れていた。
“レーヌ”となったラクテアは、書類へ目を通していた手を止める。
「珍しいですね……こんな時間に」
「オルフェが帰って、さみしくなったのですか?」
「また、すぐに会えますよ」
フィラは、少し俯いたまま口を開く。
「姉様……」
「人間って――こんなに早く歳を取るの?」
ラクテアは静かに目を閉じた。
「……ええ」
「十年という時間は、人間にとって決して短くありません」
「でも私は……」
フィラは自分の手を見る。
「何も変わってない」
ラクテアは優しく微笑む。
「それが種族です」
短い沈黙。
フィラはゆっくり顔を上げる。
「姉様は……」
「もう“レーヌ”なんだよね」
「ええ」
「なら――」
その声は震えていた。
「何とかできないの?」
ラクテアは答えなかった。
静かに立ち上がり、フィラに寄り添う。
やがて。
ゆっくりと首を横へ振った。
「……できません」
フィラの表情が固まる。
「どうして?」
「“レーヌ”なのに?」
ラクテアは妹の手をそっと包む。
「だからです」
「“レーヌ”は世界樹と、この世界の調和を守る者」
「命の流れを書き換えることはできません」
「人間をエルフにすることも」
「寿命を延ばすことも」
「それは調和ではなく、世界を乱す行為です」
フィラは何も言えなかった。
最後の希望だった。
姉なら。
“レーヌ”なら。
何とかしてくれると思っていた。
その希望が、静かに崩れていく。
ラクテアは妹の頭へ優しく手を置いた。
「フィラ」
「今、一緒にいられる時間を大切になさい」
「限りがあるからこそ」
「その時間は、何よりも尊いのです」
フィラは小さく頷く。
けれど。
その瞳から迷いは消えなかった。
――世界は、どうしてこんなにも不公平なのだろう。
その疑問は。
百年に渡る悲劇の始まりとなることを、まだ誰も知らなかった――
【第百三話へ続く】




