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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第52話

 “最後の影”が透明な光となり、悠の胸の奥へ静かに吸い込まれていった。


 その瞬間、深度全体がふっと軽くなった。

 沈んでいた霧が止まり、灰色の層がゆっくりと後退していく。


 影の子どもは、悠の胸の中で小さく震えていた。

 だが、その震えは恐怖ではなく、

 安心の余韻だった。


「……わたし……きえない……?」


「消えないよ。あなたは“私の痛み”なんだから」


 影の子どもは、ほっとしたように目を閉じた。

 白い存在が静かに告げた。


「深度の均衡は整いました。あなたは“痛み”と“孤独”を抱えたまま、上へ向かう準備ができています」


 凛が、白い層の境界から手を伸ばした。

 その手は震えていたが、確かに悠を求めていた。


「悠さん……こっちへ……!」


 白い層は、以前よりも近く見えた。

 だが、境界線はまだ完全には開いていない。

 灰色の霧が、名残惜しそうに揺れている。

 白い存在が続けた。


「ただし――上昇は“痛みを抱えたまま進む”行為です。あなたが痛みを否定すれば、深度は再び沈みます」


 影の子どもが、不安そうに顔を上げた。


「……わたし……じゃま……?」


「違うよ」


 悠は影の子どもを抱きしめた。

 女性の腕の温かさが、影の子どもに伝わる。


「あなたがいるから、私は上に行けるんだよ」


 影の子どもは驚いたように目を見開いた。


「……わたしが……いるから……?」


「そう。痛みを抱えたまま進むってことは、あなたを抱えたまま進むってこと」


 影の子どもは、胸の中で小さく泣いた。

 それは悲しみではなく、救われた涙だった。


 その涙が落ちた瞬間、深度が静かに上昇を始めた。

 灰色の霧が、足元から離れていく。影たちの姿も、ゆっくりと薄れていく。


 凛が、境界線の向こうで微笑んだ。


「悠さん……もう“底”にはいません……」


 だが――そのときだった。


 深度の奥から、かすかな声が聞こえた。


 影の子どもが震えた。


「……いまの……なに……?」


 悠も聞こえた。

 それは、影の子どもでも、最後の影でもない。


 もっと遠く、もっと深い場所から響く声。

 白い存在が、わずかに表情を曇らせた。


「……まだ、ひとつだけ残っています」


 凛が息を呑んだ。


「残っている……?」


「ええ。“痛み”と“孤独”はあなたのもの。しかし――深度の底には、あなたのものではない影がひとつだけ残っています」


 影の子どもが震えた。


「……だれ……?」


 白い存在は、深度の奥を見つめた。


「あなたが幼い頃、“助けられなかった誰か”の影です。」


 悠の胸が強く痛んだ。

 女性の胸の奥に、冷たい針が刺さるような痛み。


 凛が、境界線の向こうから言った。


「悠さん……そんな影、いたんですか……?」


 白い存在は頷いた。


「あなたは覚えていません。しかし、深度は覚えています。あなたが幼い頃、“助けられなかった誰か”がいた。その影が、深度の底に沈んだままです」


 影の子どもは、悠の胸にしがみついた。


「いかないで……あれは……わたしより……もっと……ふかい……!」


 白い存在が告げた。


「その影は、あなたが“見なかった痛み”でも、“抱えてきた痛み”でもありません。あなたが背負ってしまった他者の痛みです」


 凛が震える声で言った。


「悠さん……それって……あなたの責任じゃない……!」


「責任ではありません。しかし――深度は“痛みの連鎖”を記録します」


 白い存在は、悠を見た。


「あなたが上へ戻るには、その影を“助ける”必要はありません。ただ――見送る必要がある。それが、深度の最後の条件です」


 深度の奥から、再び声が響いた。

 それは、助けを求める声ではなかった。


 ただ――静かに、誰かを呼ぶ声だった。


「……ゆう……」


 影の子どもが泣きそうな声で言った。


「いかないで……あれは……わたしより……もっと……ふかい……!」


 白い存在が告げた。


「深度の均衡は、“最後の影”を見送ることで完成します」


 世界が、再び揺れた。

 深度の奥から響く声は、影の子どもでも、最後の影でもなかった。


 もっと遠く、もっと深い場所から、静かに、確かに呼んでいた。


「……ゆう……」


 その声は、助けを求めていない。恨んでもいない。ただ――そこにいることを知らせるためだけの声だった。


 影の子どもは、悠の胸の中で震えた。


「……あれ……わたしより……もっと……ふかい……“だれか”……」


 凛は、白い層の境界から息を呑んだ。


「悠さん……あの影は……“あなたのものじゃない痛み”なんですね……?」


 白い存在が頷いた。


「そう。あなたが幼い頃、“助けられなかった誰か”の影です」


 悠の胸が強く痛んだ。

 女性の胸の奥に、冷たい針が刺さるような痛み。


「……私……そんな記憶……」


「覚えていません。しかし深度は“痛みの連鎖”を記録します」


 白い存在は続けた。


「あなたが幼い頃、誰かがあなたに手を伸ばし、あなたはその手を取れなかった。その影が、深度の底に沈んだままなのです」


 影の子どもは、悠の胸にしがみついた。


「いかないで……あれは……わたしより……もっと……ふかい……!」


 凛は震える声で言った。


「悠さん……その影は、あなたの責任じゃない。でも――深度は“見送られなかった痛み”を残すんです」


 白い存在が静かに告げた。


「あなたが上へ戻るには、その影を“助ける”必要はありません。ただ――見送る必要がある。それが、深度の最後の条件です」


 霧が裂け、“その影”が姿を現した。


 影は、他の影よりも小さかった。幼い子どもの形をしている。だが、影の子どもとは違う。


 影の子どもは“痛みの形”。

 最後の影は“孤独の形”。


 そしてこの影は――他者の痛みの形だった。


 影は、静かに手を伸ばした。


「……ゆう……わたし……まってた……ずっと……まってた……」


 その声は、恨みでも、怒りでもない。


 ただ――届かなかった声だった。


 悠は、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。


「……私……あなたを……覚えていない……」


 影は、ゆっくりと首を振った。


「しってる……だから……まってた……おぼえてなくても……いい……ただ……みて……」


 影の子どもが叫んだ。


「だめ!! あれにさわったら……あなたは……わたしをすてちゃう……!」


 凛は涙を流しながら言った。


「悠さん……その子を捨てる必要はないんです。“助けられなかった誰か”を見送ることと、“抱えてきた痛み”を捨てることは違う」


 白い存在が頷いた。


「そう。影の子どもは“抱えていく痛み”。最後の影は“見なかった孤独”。そしてこの影は――“あなたが背負ってしまった他者の痛み”。それは、抱えてはいけない」


 影は、静かに言った。


「……ゆう……わたし……いける……あなたが……みてくれたら……いける……」


 影の子どもは泣き叫んだ。


「いやだ……! あなたは……わたしのもの……! わたしをすてないで……!」


 悠は影の子どもを抱きしめた。

 女性の腕の温かさが、影の子どもに伝わる。


「捨てない。あなたは私の痛み。抱えていく」


 影の子どもは震えた。


「……じゃあ……あれは……?」


 悠は、深度の奥にいる影を見つめた。


「……あれは……私のものじゃない。でも……

私が見なかったせいで……ここに残ったんだね」


 影は、静かに頷いた。


「……うん……だから……みて……それだけで……いける……」


 悠は、影に近づいた。

 影は、逃げなかった。ただ、そこに立っていた。

 悠は、影の頭に手を置いた。


「……ごめんね。助けられなかった。でも……あなたを見送る」


 影は、初めて“笑った”。


 その瞬間――影は光に変わった。


 透明な光が、深度の底から上へ昇っていく。

 白い存在が告げた。


「これで……深度の均衡は完全に整いました」


 凛が涙を流した。


「悠さん……!」


 影の子どもは、悠の胸の中で小さく呟いた。


「……わたし……すてられない……?」


「捨てないよ。あなたは私の一部」


 白い層が、悠の足元へ広がっていく。

 深度の底は、静かに閉じた。

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