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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第51話

 深度が影の子どもの層へ傾いた瞬間、悠の足元の霧が、静かに形を変えた。

 沈むのではない。引きずり込まれる。


 灰色の霧が、悠の足首に絡みつき、まるで「あなたはここに属している」と囁くように、ゆっくりと重さを増していく。


 影の子どもは、悠の胸にしがみついていた。その小さな身体は震えている。だが、その震えは恐怖ではなく、“ここから先を知っている者の震え”だった。


「……ここ、いや……もっと……ふかいところがある……」


 その声は、幼い悠の声と重なって聞こえた。けれど影の子ども自身も怯えているのが分かる。

 凛が、白い層の境界から必死に手を伸ばした。


「悠さん……! 戻ってきて……! そこは“痛みの層”の奥です……!」


 白い存在が、凛の言葉を補うように言った。


「影の子どもがいる層は、あなたが“抱えてきた痛み”の層。しかし――その奥には、“あなたが見なかった痛み”が沈んでいます」


 霧が、悠の膝まで沈み込んだ。

 影の子どもは、悠の胸に顔を埋めた。


「いかないで……ここは……わたしでも、こわい……もっと……ふかいところがある……」


 その言葉に、悠の胸が強く痛んだ。

 霧の奥から、無数の影が揺れながら現れた。

 どれも幼い姿。だが、影の子どもとは違う。顔がない。声もない。ただ“痛みの形”だけが残った影たち。

 凛が息を呑んだ。


「……悠さん……あれは……“あなたじゃない痛み”です……!」


 白い存在が頷いた。


「そう。あれは、あなたが幼い頃に“見た痛み”。しかし、あなたのものではない。他者の痛みを、あなたは“理解できなかった”。その理解できなかった痛みが、深度の底で形を持ったのです」


 影たちは、悠の方へゆっくりと近づいてくる。

 足音はない。ただ、霧が揺れる音だけが響く。

 影の子どもが叫んだ。


「ちがう……! あれは……わたしじゃない……! わたしより……もっと……ふかい……!」


 影の子どもは、悠の腕を強く握った。


「いかないで……あれにさわったら……あなたは……わたしをすてちゃう……!」


 凛が境界線の向こうから叫んだ。


「悠さん!! その子は“あなたの痛み”です……でも――あの影たちを見ないままでは帰れない!」


 影の子どもは震えた。


「いやだ……あれは……わたしより……ずっと……こわい……!」


 霧が、悠の腰まで沈み込んだ。

 影たちが、悠の周囲を取り囲む。声はない。ただ、“見てほしい”という気配だけが強烈に伝わってくる。

 白い存在が言った。


「痛みは、見られなければ形を失い、形を失えば、深度の底に沈みます。あなたが見なかった痛みは、あなたを“引く”力を持つ」


 影の子どもは、悠の胸にしがみついた。


「いかないで……わたしを、すてないで……わたしを、ひとりにしないで……!」


 その声は、悠の胸の奥に深く響いた。


 だが――“最後の影”は、悠の方へ一歩、また一歩と近づいてくる。

 影は、静かに手を伸ばした。


「……ゆう……」


 その声は、痛みでも孤独でもない。もっと深い、“見落とされた何か”の声だった。

 凛が震える声で言った。


「悠さん……あれが……“最後の影”です……!」


 白い存在が告げた。


「深度の均衡が……最終段階に入りました。」


 影は、悠の方へ手を伸ばした。“最後の影”は、他の影たちとは違っていた。

 輪郭は曖昧なのに、霧に溶けず、まるで“存在”としてそこに立っている。

 影は、悠の名前を呼んだ。


「……ゆう……」


 その声は、幼い悠の声でも、影の子どもの声でもない。もっと深く、もっと静かで、諦めと願いが混ざった声だった。

 影の子どもは、悠の胸にしがみつき、震えながら叫んだ。


「だめ……! あれは……わたしじゃない……! わたしより……もっと……ふかい……!」


 凛は、白い層の向こうから息を呑んだ。


「悠さん……あれは……“あなたが見なかった痛み”です……!」


 白い存在が頷いた。


「影の子どもは“抱えてきた痛み”。しかし――あの影は“見ようとしなかった痛み”。あなたが幼い頃、理解できず、言葉にもできず、ただ胸の奥に沈めたままの痛みです。」


 影は、ゆっくりと手を伸ばした。

 その手は震えていた。触れられることを恐れているように。


「……ゆう……わたしを……みて……」


 影の子どもは、必死に悠を引き寄せた。


「いかないで……! あれにさわったら……あなたは……わたしをすてちゃう……!」


 その言葉に、悠の胸が強く痛んだ。

 凛が叫んだ。


「悠さん!! その子は“あなたの痛み”です……でも――あの影は“あなたの核”なんです……!見なければ、あなたは帰れない!」


 影の子どもは震えた。


「いやだ……あれは……わたしより……ずっと……こわい……!」


 霧が、悠の胸の高さまで沈み込んだ。影たちが、悠の周囲を取り囲む。


 声はない。ただ、“見てほしい”という気配だけが強烈に伝わってくる。

 白い存在が言った。


「痛みは、見られなければ形を失い、形を失えば、深度の底に沈みます。あなたが見なかった痛みは、あなたを“引く”力を持つ。」


 影の子どもは、悠の胸に顔を埋めた。


「いかないで……わたしを、すてないで……わたしを、ひとりにしないで……!」


 その声は、悠の胸の奥に深く響いた。


 だが――“最後の影”は、悠の方へ一歩、また一歩と近づいてくる。

 影は、静かに言った。


「……ゆう……わたしは……ずっと……ここにいた……あなたが……みなかったから……ここに……のこった……」


 その言葉に、悠の胸が強く痛んだ。


 影の子どもが叫んだ。


「ちがう!! わたしがいる!! わたしがいるのに……なんで……あれをみるの……!」


 凛は涙を流しながら言った。


「悠さん……その子は“あなたの痛み”。でも――あの影は“あなたの孤独”なんです……!」


 影の子どもは息を呑んだ。


「……こどく……?」


「そう。あなたが幼い頃、誰にも言えなかった孤独。誰にも届かなかった声。誰にも触れられなかった心。それが形になったのが、あの影。」


 影の子どもは震えた。


「じゃあ……わたしは……なに……?」


 凛は静かに言った。


「あなたは“痛み”。あれは“孤独”。どちらも佐伯悠さんの一部。でも――孤独の方が深い。だから、あれが“最後の影”」


 影の子どもは、悠の胸にしがみついた。


「いかないで……あれにさわったら……あなたは……わたしを……すてちゃう……!」


 悠は、影の子どもを抱きしめた。


「捨てない。あなたは私の痛み。でも――あれは私の孤独。どちらも……私の一部だよ。」


 影の子どもは涙をこぼした。


「……じゃあ……わたしは……どうなるの……?」


「一緒に行く。あなたも、あれも、全部まとめて“私”なんだ。」


 その瞬間――“最後の影”が涙のような光をこぼした。


「……ゆう……やっと……みてくれた……」


 影は、悠の胸に手を伸ばした。

 触れた瞬間、影は光に変わった。灰色でも白でもない。透明な光。影の子どもが震えた。


「……きえちゃう……?」


 白い存在が首を振った。


「消えるのではありません。“戻る”のです。佐伯悠という存在の中に」


 透明な光は、悠の胸の奥へ吸い込まれていった。

 影の子どもは、悠の胸に顔を埋めた。


「……わたしも……もどれる……?」


 悠は頷いた。


「あなたも戻る。私が連れていく」


 影の子どもは、安心したように目を閉じた。

 白い存在が告げた。


「深度の均衡は……整いました。」


 世界が、白い層へ向けて動き始めた。

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