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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第50話

 深度の底が裂けた。凛のいる層と、影の子どものいる層。その二つが、悠の両腕を引き裂くように広がっていく。


 凛は、こちら側の姿のまま、必死に手を伸ばしていた。白い線の身体ではない。“人間の凛”の姿だ。だが、その目の奥には白い構造が揺れている。


「佐伯さん……! こっちに来て……!」


 声は震えていた。

 恐怖ではなく、焦りでもなく――喪失の予感に震えていた。

 一方で、影の子どもは悠の腕にしがみつき、離れまいと必死だった。


「いかないで……ぼくを、またすてないで……」


 その声は、幼い悠の声と重なっていた。

 まるで、過去の自分が今の自分にしがみついているようだった。


 白い存在は、二つの層の境界に立っていた。

 その姿は、以前よりも“人間に近い形”をしている。

 輪郭がはっきりし、空洞の目には色が宿り始めていた。


「悠。深度の均衡は、あなたの選択を待っているわけではありません」


 白い存在は、凛のいる層を指した。


「凛は“戻る側”に選ばれた。彼女は、こちら側に残る理由を持たない」


 次に、影の子どものいる層を指した。


「そして、影の子どもは“残る側”に選ばれた。彼は、帰る場所を持たない」


 白い存在は、悠の胸に手を当てた。


「あなたは、そのどちらにも属していない。だから――あなたが均衡を決める」


 凛が叫んだ。


「佐伯さん! その子は……あなたを“代わり”にしようとしてるの!」


 影の子どもは震えた。


「ちがう……ぼくは、ただ……ひとりがいやなんだ……あなたがいないと……ぼくは……」


 言葉が途切れた。影の子どもの身体が揺れ、霧の中に溶けかける。

 白い存在が言った。


「彼は、存在が不安定なのです。あなたが手を離せば、彼は“深度の底”に沈む」


 凛が涙を流した。


「佐伯さん……お願い……その子の言葉を信じないで……その子は――」


 凛の声が震えた。


「その子は、あなたの“影”じゃない。あなたの“もうひとり”でもない。あなたの……置いていかれた未来なの」


 影の子どもは凛を睨んだ。


「うそだ……ぼくは、この人の――」


「違うの!」


 凛は影の子どもに近づいた。

 その動きは、深度の層を滑るように静かだった。


「あなたは……“佐伯さんが来なかった場合の未来”なの」


 影の子どもは震えた。


「……みらい……?」


「そう。佐伯さんが、あなたを助けに来なかった未来。あなたが、ずっとひとりで……誰にも見つけてもらえず……深度の底に沈んでいった未来」


 影の子どもは、ゆっくりと後ずさった。霧がその足元で波打つ。


「そんな……そんなはず……ぼくは……この人の……」


「あなたは“可能性”なの」


 凛は静かに言った。


「佐伯さんが、あなたを助けなかった場合の。あなたが、誰にも見つけてもらえなかった場合の。あなたが、深度の底で“影”になってしまった場合の」


 影の子どもは、悠の手を握りしめた。


「じゃあ……ぼくは……どうすれば……?」


 白い存在が答えた。


「あなたは、消える必要はありません。ただ――“代わり”を求めてはいけない」


 影の子どもは震えた。


「でも……ぼくは……ひとりが……」


 凛が言った。


「ひとりじゃないよ。佐伯さんは、あなたを忘れてたんじゃない。“知らなかった”だけ」


 影の子どもは、悠を見上げた。


「……ほんとう……?」


 悠は、影の子どもの手を握り返した。


 その瞬間、深度の底が静かに揺れた。


 凛が言った。


「佐伯さん……あなたが手を離さなければ、この子は“未来”に戻れる」


 影の子どもは息を呑んだ。


「……もどれる……?」


「うん。あなたは“未来の可能性”なんだよ。だから、佐伯さんがあなたを受け入れれば――あなたは“影”じゃなくなる」


 白い存在が告げた。


「ただし――その場合、凛は戻れません。」


 世界が止まった。


 世界が割れたまま、時間だけが止まっていた。

 凛のいる層は白い光に満ち、影の子どものいる層は灰色の霧に沈んでいる。

 その二つの層の境界に、悠は立っていた。

 凛は、涙を流しながら手を伸ばしていた。その手は震えているのに、目だけは強く、まっすぐ悠を見ていた。


「佐伯さん……私、帰りたいんじゃないんです。あなたと一緒に帰りたいんです」


 その言葉は、深度の底に静かに響いた。

 一方で、影の子どもは悠の腕にしがみつき、

 必死に離れまいとしていた。


「いかないで……ぼくを、またすてないで……こんどは、いっしょにいて……」


 その声は、幼い悠の声と重なっていた。

 まるで、過去の自分が今の自分にしがみついているようだった。


 白い存在は、二つの層の境界に立ち、静かに告げた。


「深度の均衡は、“ひとりが戻り、ひとりが残る”ことで保たれます。これは意志ではなく、構造です」


 凛が叫んだ。


「でも、それは……“誰でもいい”ってことじゃないんです!」


 白い存在は凛を見た。


「凛。あなたは、戻る側に選ばれた。あなたは“こちら側に残る理由”を持たない」


 凛は首を振った。


「違う……私は、佐伯さんを置いて帰れない。そんな帰り方、したくない……!」


 影の子どもは、凛を睨んだ。


「あなたは……ぼくのことなんて知らないくせに……ぼくは、この人がいないと……ほんとうに、ひとりなんだ……!」


 凛は影の子どもに近づいた。その動きは、深度の層を滑るように静かだった。


「あなたは“ひとり”じゃない。佐伯さんは、あなたを忘れてたんじゃない。“知らなかった”だけ」


 影の子どもは震えた。


「……じゃあ……ぼくは……どうすれば……?」


 凛は影の子どもの手に触れた。その瞬間、影の子どもの身体が大きく揺れた。


「あなたは“未来の可能性”なんだよ。佐伯さんがあなたを助けなかった場合の。あなたが深度の底で“影”になってしまった場合の」


 影の子どもは、ゆっくりと顔を上げた。


「……ぼくは……この人の未来……?」


「そう。でも、それは“確定した未来”じゃない。“可能性”なの」


 白い存在が告げた。


「だからこそ、あなたは“代わり”を求めてはいけない」


 影の子どもは震えた。


「でも……ぼくは……ひとりが……こわい……」


 凛は、影の子どもの肩に手を置いた。


「ひとりじゃないよ。佐伯さんは、あなたを置いていったんじゃない。あなたが“佐伯さんを置いていった未来”なんだよ」


 影の子どもは、悠を見た。


「……ぼくは……あなたの……“もしもの未来”……?」


 悠は、影の子どもの手を握り返した。


「……そうだ。でも、今の俺は……お前を置いていかない」


 影の子どもは、涙のような霧をこぼした。


「じゃあ……いっしょに……?」


 白い存在が静かに言った。


「それはできません。深度の均衡が崩れます」


 凛が叫んだ。


「佐伯さん!その子の手を離さないで……でも、こっちにも来て……!」


 影の子どもも叫んだ。


「いかないで……ぼくを、すてないで……!」


 二つの層が、悠の身体を引き裂くように広がっていく。

 白い存在が告げた。


「均衡が限界です。どちらかが“選ばれる”。あなたの意志とは関係なく」


 凛が泣き叫んだ。


「佐伯さん……! 来て……! お願い……!」


 影の子どもも泣き叫んだ。


「いかないで……! ぼくを、すてないで……!」


 深度の底が、二つの方向へ同時に沈んだ。

 白い存在が最後に言った。


「選ぶのは、あなたではありません。あなたの“深度”です」


 世界が、完全に裂けた。

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