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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第49話

 深度の底が閉じたあと、悠はしばらく動けなかった。影の子どもが腕にしがみついたまま、まるで「ここにいて」と言うように震えている。


 その震えは、恐怖ではなかった。喪失の記憶だった。

 灰色の霧がゆっくりと晴れ、新しい層が姿を現した。


 そこは、凛がいた層とはまったく違う。白い線の建物も、深度の揺れもない。代わりに、無数の扉が並ぶ長い廊下が続いていた。

 扉には番号がない。ただ、どれも同じ形で、同じ色で、同じ静けさをまとっている。

 影の子どもは、悠の手を握ったまま、廊下の奥を指差した。


「……あっちに、いる」


 その声は、幼い悠の声と重なっていた。


 悠は歩き出した。影の子どもは、まるで“導く”ように隣を歩く。扉の前を通るたび、中からかすかな気配が漏れた。


 泣き声。笑い声。怒鳴り声。誰かの呼ぶ声。どれも、幼い声だった。

 影の子どもが言った。


「ここは……“帰れなかった子ども”が閉じ込められる場所なんだ」


 悠は息を呑んだ。


「ぼくみたいに、だれにも見つけてもらえなかった子が……扉の中にいる」


 扉のひとつが、かすかに揺れた。中から、小さな手が伸びてきた。

 だが、扉は開かない。

 影の子どもは、その手を見て震えた。


「ぼくも……ずっと、こうだった」


 悠は影の子どもの肩に手を置いた。

 その瞬間、影の子どもはびくりと震えたが、すぐに安心したように寄り添った。


「でも、あなたは……ぼくを見た。ぼくの声を聞いた。ぼくの手を握った」


 影の子どもは、悠の手を強く握った。


「だから、ぼくは……あなたを待ってたんだ」


 そのとき、廊下の奥から光が差した。

 白い存在が現れた。以前よりも輪郭がはっきりしている。目の空洞には、わずかな“色”が宿っていた。


「悠」


 白い存在は、初めて悠の名前を呼んだ。


「あなたは、凛を助けたいと思っている。しかし――凛は、あなたを助けようとしている」


 影の子どもが、白い存在を睨むように見た。


「ちがう。ぼくは……この人といっしょにいたいだけだ」


 白い存在は首を振った。


「違います。あなたは“残るため”に悠を呼んだのです」


 影の子どもは震えた。


「そんなこと……してない……!」


 白い存在は、影の子どもに近づいた。


「あなたは気づいていない。しかし、深度の均衡は“意志”ではなく“構造”で動く」


 白い存在は、悠の方を向いた。


「凛が戻るには、“ひとり”がこちら側に残らなければならない」


 影の子どもは、悠の腕にしがみついた。


「ぼくじゃ、だめなんだ……ぼくには、もう“身体”がないから……」


 白い存在は静かに言った。


「残れるのは、“こちら側に来たことがある者”だけ」


 影の子どもは、悠を見上げた。


「あなたしか……いないんだよ」


 その瞬間、廊下の奥から凛の声が響いた。


「佐伯さん……! 聞かないで……! その子は――」


 声が途切れた。

 白い存在が、凛の声の方向を見た。


「凛は、真実を知っています。あなたが幼い頃、“誰を置いて帰ったのか”」


 影の子どもが、悠の手を強く握った。


「いかないで……こんどは、すてないで……」


 白い存在が、静かに告げた。


「悠。あなたが置いていったのは――あなた自身です。」


 影の子どもが、悠の胸に顔を埋めた。


「ぼくは……あなたの“影”じゃない。あなたの“もうひとり”なんだよ」


 深度の底が、静かに開いた。

 深度の底が開いた瞬間、悠の足元に“階段のようなもの”が現れた。階段といっても、形があるわけではない。灰色の霧が段差の形をとり、悠を“下へ”誘うように伸びている。

 影の子どもは、悠の手を握ったまま、その階段の先を見つめていた。


「……あそこに、ぼくの“終わり”がある」


 その言葉に、白い存在が反応した。わずかに顔を向け、空洞の目の奥で色が揺れた。


「終わりではありません。“始まり”です」


 影の子どもは首を振った。


「ちがう。あそこに行ったら……ぼくは、あなたと離れちゃう」


 悠は影の子どもの手を握り返した。その瞬間、影の子どもの身体が震えた。


 まるで、“触れられること”そのものが久しぶりであるかのように。

 白い存在が静かに言った。


「凛があなたを止めようとした理由を、あなたはまだ知らない」


 その言葉と同時に、廊下の空気が変わった。


 扉のひとつが、ゆっくりと開いた。中から、凛が現れた。白い線の身体ではなく、“こちら側の凛”の姿だった。

 だが、目の奥には白い構造が揺れている。


「佐伯さん……」


 凛は、影の子どもを見た。その表情は、恐怖ではなく――哀しみだった。


「その子は……佐伯さんの“影”じゃない。佐伯さんの“もうひとり”でもない」


 影の子どもが凛を睨んだ。


「うそだ。ぼくは、この人の――」


「違うの」


 凛は影の子どもに近づいた。

 その動きは、深度の層を滑るように静かだった。


「あなたは……“佐伯さんが置いていった子”じゃない」


 影の子どもは震えた。


「じゃあ……ぼくは、だれ……?」


 凛は、影の子どもの手に触れた。その瞬間、影の子どもの身体が大きく揺れた。


 まるで、触れられたことが初めてであるかのように。


「あなたは……“佐伯さんが置いていった子”じゃない。佐伯さんが“置いていかれた側”の子なの。」


 影の子どもは息を呑んだように震えた。


「……おいて、いかれた……?」


 凛は静かに頷いた。


「佐伯さんは、あなたを置いていったんじゃない。あなたが、佐伯さんを置いていったの」


 影の子どもは後ずさった。霧がその足元で波打つ。


「そんな……そんなはず、ない……ぼくは……ひとりで、こわくて……だから――」


「だから、佐伯さんを“呼んだ”の」


 凛の声は優しかった。

 しかし、その優しさは深度の底に響くほど鋭かった。


「あなたは、ずっと待ってた。“置いていかれた”と思い込んで。でも、本当は――あなたが佐伯さんを置いていったの」


 影の子どもは、震える声で言った。


「……じゃあ……ぼくは……どうすれば……?」


 白い存在が、影の子どもの背後に立った。


「あなたは、帰る場所を失った。だから、深度の均衡があなたを“残す側”に選んだ」


 影の子どもは、悠の手を握りしめた。


「いやだ……ひとりは、いやだ……いっしょにいて……こんどは、すてないで……」


 凛が叫んだ。


「佐伯さん、だめ!その子は――“あなたの代わり”になろうとしてるの!」


 影の子どもは、悠の胸にしがみついた。


「ぼくが……あなたの代わりになる……だから……あなたは、帰って……」


 その瞬間、深度の底が大きく揺れた。

 白い存在が告げた。


「均衡が動き始めました。選択の時間は、もうありません」


 凛が悠の手を掴んだ。


「佐伯さん……行かないで……!」


 影の子どもが、反対の手を掴んだ。


「いかないで……ぼくを、すてないで……!」


 深度の底が裂け、二つの層が同時に開いた。

 凛のいる層と、影の子どものいる層。

 白い存在が最後に言った。


「残れるのは、ひとりだけです」


 世界が、完全に割れた。

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