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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第48話

 影の子どもが悠の手を掴んだ瞬間、深度の底は音もなく閉じた。

 凛の声も、白い存在の気配も、すべて霧の向こうへ遠ざかる。

 残されたのは、悠と影の子どもだけだった。


 灰色の霧がゆっくりと晴れていく。

 その奥に現れたのは、古い団地の廊下だった。

 壁の色、床の模様、夕方の光の角度――すべてが、悠の幼い頃の記憶と一致していた。


 影の子どもは、廊下の奥を指差した。その指先は震えている。まるで「ここだよ」と言っているようだった。


 悠は歩き出した。足音はしない。ただ、廊下が悠の歩みに合わせて伸びていく。

 現実ではなく、記憶の中を歩いているような感覚。

 やがて、ひとつの扉の前にたどり着いた。201号室。幼い頃の自分の家だ。影の子どもは扉の前で立ち止まり、悠を見上げた。

 顔はない。だが、そこに“感情”があるのが分かった。


 悠は扉に手を伸ばした。触れた瞬間、扉は静かに開いた。

 中は暗かった。家具も、生活の気配もない。ただ、部屋の中央に――幼い悠が座っていた。

 膝を抱え、泣いていた。その隣に、影の子どもが座っていた。

 幼い悠は、影の子どもの手を握っていた。


 その光景を見た瞬間、胸の奥が強く痛んだ。忘れていた。完全に。

 だが、確かにあった記憶。幼い悠が、震える声で言った。


「……いかないで」


 影の子どもは、幼い悠の手を握り返した。その動きは、必死だった。


「いっしょにいて」


 その声は、今の影の子どもの声と同じだった。

 白い存在の声が、霧の奥から響いた。


「あなたは、置いていったのです。幼い頃に。この子を」


 影の子どもが、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、今の悠の方へ歩いてくる。

 幼い悠は、影の子どもの手を離した。その瞬間、影の子どもの身体が揺れた。まるで、存在の一部が剥がれ落ちるように。

 影の子どもは、今の悠の前で立ち止まった。

 そして――初めて、声を発した。


「……おいていかないで」


 その声は、幼い頃の悠が泣きながら言った声と同じだった。


 悠は息を呑んだ。影の子どもは続けた。


「ぼくは……あなたの“影”じゃない。あなたが置いていった“もうひとり”なんだ」


 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。


 幼い悠が、ゆっくりと顔を上げた。その目は――今の悠と同じ色をしていた。


「……ごめんね」


 幼い悠が言った。


「ぼく、こわくて……ひとりで、いけなかった」


 影の子どもは、幼い悠の言葉を聞いて、静かに震えた。


「だから……あなたが、ぼくを置いていったんだ」


 影の子どもは、今の悠の手を握った。


「こんどは……いっしょにいて」


 その瞬間、深度の底が静かに揺れた。

 凛の声が、遠くから響く。


「佐伯さん……! 戻ってきて……!」


 影の子どもは、悠の手を強く握った。


「いかないで」


 凛の声が、深度の裂け目から届く。


「佐伯さん……! その子は――」


 言葉が途切れた。

 影の子どもが、悠を抱きしめた。


「ぼくを……すてないで」


 深度の底が、完全に閉じた。深度の底が閉じた瞬間、世界は静止した。音も、光も、空気の流れも止まり、ただ、影の子どもの腕の重さだけが残った。


 抱きしめられているのに、温度がない。だが、確かに“重さ”がある。存在の重さ。


 影の子どもは、悠の胸に顔を押しつけた。顔はないはずなのに、そこに“泣き顔”があるのが分かった。


「……ひとりは、いやだよ」


 その声は、幼い悠の声と重なっていた。まるで、過去の自分が今の自分にしがみついているようだった。

 影の子どもは続けた。


「あなたが帰ったあと……ぼく、ずっとここにいたんだ」


 灰色の霧が揺れ、影の子どもの背後に、無数の影が浮かび上がった。


 大人の影。子どもの影。どれも顔がない。


「ここは……“置いていかれた子ども”が来る場所なんだ」


 影の子どもは、霧の奥を指差した。


「ぼくみたいに、だれにも見つけてもらえなかった子が……ずっと、ここにいる」


 その言葉に、悠の胸が強く痛んだ。


「でも、あなたは……ぼくを見た。ぼくの声を聞いた。ぼくの手を握った」


 影の子どもは、悠の手を強く握った。


「だから、ぼくは……あなたを待ってたんだ」


 その瞬間、霧が大きく揺れた。深度の底が、再び開こうとしている。

 凛の声が、裂け目の向こうから響いた。


「佐伯さん……! その子は、あなたの“影”じゃない……! あなたの――」


 言葉が途切れた。

 影の子どもが、悠の手を引いた。


「いっしょに、きて」


 霧が裂け、新しい層が開いた。


 そこには――凛がいなかった。


 白い存在だけが立っていた。白い存在は、悠を見た。その目の空洞に、わずかな“色”が宿っていた。


「あなたは、選ばれました」


 影の子どもが、悠の腕にしがみつく。


「いかないで……こんどは、すてないで……」


 白い存在が静かに言った。


「凛を戻すには、“ひとり”がこちら側に残らなければならない」


 影の子どもは、悠の手を握りしめた。


「ぼくじゃ、だめなんだ。ぼくには……もう“身体”がないから」


 白い存在が続けた。


「残れるのは、“こちら側に来たことがある者”だけ」


 影の子どもが、悠を見上げた。


「あなたしか……いないんだよ」


 その瞬間、深度の底が完全に開いた。

 凛の声が、遠くで泣いていた。

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