第47話
白い存在の手が悠の肩に触れた瞬間、世界は沈むのではなく――開いた。
裂け目のように、静かに。音も光もなく、ただ“層”がめくれるように。
悠は、深度の底のさらに下――第六層へ落ちた。
そこは、これまでの白い線の世界とは違った。
色があった。ただし、色と呼べるほど鮮明ではない。薄い灰色の霧の中に、ところどころ“記憶の断片”のような影が浮かんでいる。
影は、動いていた。
人影。子どもの影。大人の影。形はあるのに、顔がない。
まるで、誰かの記憶が剥がれ落ちて、ここに溜まっているようだった。
悠は、その中に――凛の影を見つけた。
幼い凛。まだ小学校にも上がっていない頃の姿。その影は、窓の外を見ていた。
そして、窓の外には――顔のない子どもが立っていた。凛が言っていた“あの夜”の記憶だ。
影の凛は、窓を開けた。
恐怖ではなく、好奇心のような動きで。
顔のない子どもは、影の凛に手を伸ばした。
その瞬間、影の世界が揺れた。
白い存在が、悠の横に現れた。いつの間にか、すぐそばにいた。
「これは、凛の記憶です」
白い存在の声は、以前よりもはっきりしていた。
まるで、こちら側の言葉を学習しているように。
「凛は一度、こちら側に来ました。しかし、戻された。“こちら側の凛”として」
影の凛が、顔のない子どもの手を握る。
その瞬間、影の凛の身体が白く揺れた。
「凛は、向こう側の子どもを置いて帰った。その罪悪感が、記憶の底に沈んだまま、ずっと凛を呼び続けていたのです」
悠は影の凛を見つめた。
幼い凛は、顔のない子どもを抱きしめていた。
その動きは、恐怖ではなく――同情だった。
「凛は優しい子です。だから、呼ばれたら来てしまう」
白い存在が、悠の方へ顔を向けた。
「しかし、今回は違います。凛は“戻るため”に来たのです」
影の世界が、ゆっくりと崩れ始めた。記憶の断片が霧の中に溶けていく。
その奥に――本物の凛が立っていた。
向こう側の子どもと手をつないだまま。
凛は、悠を見た。
その目の奥の白い構造が、以前よりもはっきりと形を持っている。
「佐伯さん」
凛の声は、もうこちら側の声ではなかった。
しかし、確かに凛の声だった。
「私、この子を連れて帰りたいんです」
悠は息を呑んだ。
「でも……この子は“こちら側”に戻れません。身体がないから」
凛は、向こう側の子どもの手を握りしめた。
「だから、佐伯さん。この子の“代わり”になってください。」
世界が止まった。
白い存在が、静かに言った。
「凛を戻すには、ひとりがこちら側に残らなければならない。深度の均衡のために」
凛は、涙を流していた。
白い線の身体なのに、涙だけは透明だった。
「佐伯さん……お願いです。私を、帰らせてください」
悠の深度が、音もなく沈んだ。
凛の「代わりになってください」という言葉が落ちた瞬間、悠の周囲の空気が、静かに変わった。
沈むのでも、揺れるのでもない。選択肢が消えていく感覚だった。
深度の底は、灰色の霧に満ちている。
その霧の中で、影たちがゆっくりと動いていた。
誰かの記憶の残骸のような影。顔のない大人、顔のない子ども。その中に、ひときわ濃い影があった。
悠自身の影だった。
凛が小さく息を呑む。
「……佐伯さんの影。ここに来たことがあるんですか?」
悠は答えられない。
声が出ないのではなく、思い出せない。
白い存在が、悠の影の前に立った。
「あなたも、一度こちら側に来ています。幼い頃に」
悠の胸が強く脈打った。
「しかし、あなたは“戻された”。凛と同じように」
影の悠が、霧の中でゆっくりと動いた。
幼い姿。
小さな手。
その手は――誰かの手を握っていた。
だが、その“誰か”の姿は霧に隠れて見えない。
凛が震える声で言った。
「佐伯さん……あなたも、誰かを置いて帰ったんです」
その瞬間、霧がわずかに晴れた。
影の悠が握っていた手の先に――小さな影の子どもがいた。
顔はない。
だが、凛の隣にいる子どもとは違う。もっと小さく、もっと弱々しい影。
白い存在が静かに言った。
「深度の均衡は、常に“二人”で保たれます。一人が戻ると、一人が残る。それが、この層の“構造”です」
凛が向こう側の子どもの手を握りしめた。
「だから……私が戻るには、誰かが残らないといけない」
悠は凛を見た。
凛は泣いていた。
白い線の身体なのに、涙だけは透明だった。
「佐伯さん。私、この子を置いて帰ったこと……ずっと後悔してたんです」
凛は向こう側の子どもを抱きしめた。
「でも、今度は……誰も置いていきたくない」
その言葉は、深度の底に静かに響いた。
白い存在が、悠の影を指差した。
「あなたも同じです。あなたも、かつて“誰か”を置いて帰った。その影が、ここに残っています」
霧がさらに晴れた。
影の悠の隣にいた小さな影の子どもが、ゆっくりとこちらを向いた。
顔はない。
だが、悠の胸の奥が強く痛んだ。
思い出せないのに、確かに知っている感覚。
凛が震える声で言った。
「佐伯さん……その子、あなたを待ってたんです」
影の子どもが、悠へ手を伸ばした。
その瞬間――深度の底が、静かに“二つ”に割れた。
凛のいる層と、悠の影のいる層。
白い存在が言った。
「選択ではありません。あなたは、呼ばれています。凛と同じように」
影の子どもが、悠の手を掴んだ。
その手は、驚くほど温かかった。
凛が叫んだ。
「佐伯さん、だめ!その子は――」
言葉の途中で、凛の声が深度の裂け目に吸い込まれた。
悠の視界が、白く反転する。
影の子どもの声が、初めて聞こえた。
「……おいていかないで」
その声は、悠が幼い頃に聞いた声だった。
深度の底が、完全に閉じた。




