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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第46話

 沈んだ、と思った瞬間、悠は“地面”に立っていた。だが、それは地面ではなかった。


 足元は、薄い膜のようにたわみ、踏むたびに、波紋のような白い線が広がる。

 水でも、床でもない。

 “深度の底”そのものが、形を持ったような場所。

 空気は静かで、冷たく、音が吸い込まれるように消えていく。

 ここは、凛が沈んでいった先――向こう側の層だった。


 悠は周囲を見回した。部屋はもうない。

 壁も天井も、現実の形をしていない。

 代わりに、白い線で描かれたような建物の“影”が並んでいた。


 輪郭だけがあり、中身は空洞。

 まるで、世界が“設計図の段階”に戻ったような風景。


 その奥で――凛が立っていた。


 凛は、こちら側の凛ではなかった。

 輪郭が薄く、色が抜け、白い線が身体の中を流れている。


 だが、表情はあった。

 静かで、穏やかで、どこか懐かしいものを見つめるような顔。


 凛の前に、もう一人の子どもがいた。


 白い存在ではない。

 凛と同じくらいの背丈で、髪の長さも、体格も、“普通の子ども”に見える。


 ただ――顔がなかった。


 目も鼻も口もない。

 ただ、白い面のような空白。


 凛は、その子どもと向かい合っていた。


「……凛ちゃん……?」


 悠は声を出したつもりだった。

 だが、音は出なかった。


 それでも、凛は振り返った。


「佐伯さん。ここは……私が来た場所です」


 その言葉に、悠の心臓が強く脈打った。


 凛が来た場所――つまり、凛は以前にもここにいた。


「この子、覚えてます」


 凛は、顔のない子どもを見つめた。


「ずっと……呼んでました。私を、ここに」


 白い存在が、悠の横に立った。

 いつの間にか、すぐそばにいた。


 だが、以前のように“こちら側へ引きずる”気配はない。

 ただ、悠と同じ方向――凛と顔のない子どもを見ていた。


 そのとき、顔のない子どもが、ゆっくりと凛へ手を伸ばした。


 凛も、同じように手を伸ばす。


 指先が触れた瞬間――凛の身体の白い線が、一斉に揺れた。

 まるで、何かを思い出したように。


「……あ……」


 凛の口から、かすかな声が漏れた。


 その声は、こちら側の凛の声ではなかった。

 もっと幼い、もっと深い場所に沈んだ声。


「佐伯さん……私、ここで……」


 凛の言葉が途切れた。


 顔のない子どもが、凛の手を強く握った。


 その瞬間、凛の身体の白い線が、完全に向こう側の構造へ変わった。


 輪郭が消え、色が抜け、白い線だけが残る。凛は、向こう側の存在になった。


 悠は叫ぼうとした。だが、声は出ない。

 白い存在が、悠の肩に手を置いた。その手は冷たくも、重くもなかった。ただ、静かだった。


「……見てください」


 白い存在が、初めて“言葉”を発した。


 その声は、凛が沈む前に聞いた声と同じだった。


「凛は、帰る場所を思い出しました」


 悠は凛を見た。

 凛は、顔のない子どもと手をつないだまま、

 こちら側を見ていた。

 その目の奥の白い構造が、ゆっくりと回転していた。


「佐伯さん」


 凛は微笑んだ。


「私、ここで……待ってました」


 悠の深度が、音もなく沈んだ。


 悠は、凛と顔のない子どもが手をつないだ瞬間、

 “何かが始まった”と直感した。


 それは恐怖ではなく、理解に近い感覚だった。


 凛の身体を流れる白い線が、まるで記憶を辿るように震えている。


 凛は、向こう側の子どもを見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。


「……この子、私の名前を知ってました」


 悠は息を呑んだ。

 声は出ないが、心臓の鼓動だけが強く響く。


「私がまだ、小さかった頃……ここに来たことがあるんです」


 凛は、まるで遠い昔を思い出すように、静かに言葉を続けた。


「夜、窓の外に……この子が立っていて。私、怖くなかった。だって、この子……泣いてたから」


 顔のない子どもが、凛の手を握り返す。

 その動きは、まるで“再会”のようだった。


「泣いてた理由、今わかりました」


 凛は、悠の方を見た。

 その目の奥の白い構造が、ゆっくりと回転している。


「この子、帰れなかったんです。ずっと、ひとりで」


 白い存在が、悠の横で静かに立っていた。

 その顔の空白に、わずかな“揺れ”が生まれる。

 まるで、凛の言葉に反応しているようだった。


「佐伯さん」


 凛は、向こう側の子どもの手を握ったまま、

 こちら側へ一歩近づいた。


 その動きは、もう人間の歩き方ではなかった。

 深度の層を滑るような、静かな移動。


「私、思い出しました。この子……私を呼んだんじゃない。助けを求めてたんです。」


 悠の胸が強く締めつけられた。

 凛は続けた。


「この子、向こう側に閉じ込められたまま……誰にも見つけてもらえなかった。だから、私を“見た”んです。私だけが、この子を見られたから」


 白い存在が、初めて動いた。ゆっくりと、凛の方へ顔を向ける。

 その目の空洞が、凛の“奥”を見た。


「……あなたも、同じです」


 白い存在が言った。

 声は、凛の声に似ていた。


「あなたも、かつてこちら側に来た。そして、戻った。だから、見える」


 悠は震えた。

 自分が“見える側”の人間だという事実が、深度よりも重くのしかかる。


「佐伯さん」


 凛が手を伸ばした。

 その指先は白い線でできているのに、どこか温かさを感じさせた。


「この子を……助けてあげたいんです」


 凛の声は、迷いがなかった。


「私が来た理由は、これだったんです。ずっと忘れてたけど……この子を置いて帰ったから」


 顔のない子どもが、凛の手を強く握る。

 その動きは、必死だった。


「佐伯さん。私、ひとりじゃ戻れません。でも……あなたがいれば、戻れる」


 悠は凛を見た。

 凛は、向こう側の存在になりつつあるのに、その表情は、あの夜と同じだった。


 優しくて、強くて、誰かを助けようとする子どもの顔。


「だから……一緒に来てください」


 凛の言葉が落ちた瞬間、深度の底が静かに揺れた。

 白い存在が、悠の肩に手を置いた。


「選んでください」


 その声は、凛が沈む前に聞いた声と同じだった。


「凛と共に“向こう側”へ行くか。それとも……こちら側に戻るか」


 深度の底が、静かに沈んだ。

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