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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第45話

 世界が反転したあと、悠はしばらく動けなかった。

 立っているのか、倒れているのか、浮いているのかすら分からない。

 ただ、視界の奥行きが壊れ、遠いものが近く、近いものが遠く見える。


 深度が、完全に狂っていた。


 凛の姿はまだ見える。だが、距離が分からない。手を伸ばせば触れられそうなのに、歩いても歩いても近づかないような、奇妙な遠さ。


 凛は、こちら側の光の層から半分抜け落ちていた。

 輪郭が薄く、色が抜け、白い線だけが残りつつある。

 向こう側の構造に近づいている。


「……佐伯さん」


 凛の声が、深い場所から響いた。

 水の底で聞く声のように、輪郭がぼやけている。


「まだ、こちら側にいます。でも……長くはもちません」


 悠は声を出そうとしたが、喉から音が出なかった。音という概念が、世界から薄れていた。


 白い存在が、凛の背後に立っていた。

 顔の空白には、目と口の“形”だけが浮かんでいる。

 表情はない。ただ、深度だけがある。

 その深度が、悠を見ていた。


 見られた瞬間、視界が揺れた。

 壁が波打ち、天井が遠ざかり、床が水面のように揺れる。

 世界が、悠の周囲で形を変えていく。


「佐伯さん」


 凛が手を伸ばした。その指先は白く、光の層から浮いているようだった。


「来ないで。今、触れたら……佐伯さんも沈みます」


 沈む――その言葉が、妙に現実的だった。


 悠は後ずさろうとした。

 だが、後ずさったはずの床が、前へ動いた。

 世界が、悠の動きと逆方向へ滑っていく。


 凛の輪郭が、さらに薄くなる。

 光の層から剥がれ、向こう側の深度へ引かれていく。


「凛ちゃん……!」


 声にならない声が、空気に吸われた。


 白い存在が、凛の肩に手を置いた。

 その瞬間、凛の身体がふっと軽くなり、足元が床から離れた。


 浮いたのではない。深度が変わった。

 凛は、こちら側の深度から外れた。


「佐伯さん」


 凛の声は、もう“こちら側”の音ではなかった。

 どこか遠く、深い場所から響いている。


「私、行きますね」


 白い存在が、凛の背中を軽く押した。


 凛の身体が、ゆっくりと沈んでいく。

 床の下へではない。

 空気の層の下へ。

 こちら側の深度より、さらに下へ。


 沈むにつれ、凛の輪郭が薄れ、色が抜け、白い線だけが残っていく。


 まるで、向こう側の存在と同じ構造へ変わっていくようだった。


 凛の足が、床の“下”に消えた。

 次に、膝が沈む。

 腰が沈む。

 胸が沈む。


 最後に、顔だけが残った。


 その顔の奥の白い構造が、ゆっくりと回転していた。


「佐伯さん」


 凛は微笑んだ。その笑みは、もう人のものではなかった。


「向こう側は……静かです」


 そして――凛は沈んだ。完全に。


 白い存在が、悠へ顔を向けた。

 その目の空洞が、悠の“奥”を見た。


 身体ではない。心でもない。もっと深い、存在の深度を。

 見られた瞬間、悠の足元が抜けた。


 落ちたのではない。深度が変わった。

 床が遠ざかり、天井が沈み、壁が折りたたまれるように狭まる。

 世界が、悠の周囲で形を変えていく。


「佐伯さん」


 凛の声が、深い場所から響いた。


「次は……佐伯さんの番です」


 白い存在の手が、悠の肩に触れた。


 その瞬間――世界が、音もなく反転した。


 世界が反転したあと、悠は“落ちている”と感じた。

 だが、落下の感覚はなかった。

 身体が軽くなるわけでも、風を切るわけでもない。


 ただ、深度が変わっていく。


 視界の奥行きが伸び、遠くのものが近く、近くのものが遠く見える。


 凛の姿はまだ見える。だが、距離が分からない。まるで、凛が“別の層”にいるようだった。


「……佐伯さん」


 凛の声が、深い場所から響いた。

 水の底で聞く声のように、輪郭がぼやけている。


「聞こえていますか?」


 悠は返事をしようとした。

 だが、声が出なかった。


 喉が塞がれたわけではない。

 音という概念が、世界から薄れていた。


 白い存在が、凛の背後に立っていた。

 顔の空白には、目と口の“形”だけが浮かんでいる。

 表情はない。ただ、深度だけがある。


 その深度が、悠を見ていた。


 見られた瞬間、視界が揺れた。

 壁が波打ち、天井が遠ざかり、床が水面のように揺れる。


 世界が、悠の周囲で形を変えていく。


「佐伯さん」


 凛が手を伸ばした。

 その指先は白く、光の層から浮いているようだった。


「来ないで。今、触れたら……佐伯さんも沈みます」


 沈む――その言葉が、妙に現実的だった。


 悠は後ずさろうとした。

 だが、後ずさったはずの床が、前へ動いた。

 世界が、悠の動きと逆方向へ滑っていく。


 凛の輪郭が、さらに薄くなる。

 光の層から剥がれ、向こう側の深度へ引かれていく。


「凛ちゃん……!」


 声にならない声が、空気に吸われた。


 白い存在が、凛の肩に手を置いた。

 その瞬間、凛の身体がふっと軽くなり、足元が床から離れた。


 浮いたのではない。深度が変わった。


 凛は、こちら側の深度から外れた。


「佐伯さん」


 凛の声は、もう“こちら側”の音ではなかった。

 どこか遠く、深い場所から響いている。


「私、見えますか?」


 悠は頷こうとした。だが、頷いたはずの首が動かない。


 動かないのではない。

 動きという概念が、世界から薄れていた。


 凛はゆっくりと沈んでいく。

 床の下へではない。

 空気の層の下へ。

 こちら側の深度より、さらに下へ。


 沈むにつれ、凛の輪郭が薄れ、色が抜け、白い線だけが残っていく。


 まるで、向こう側の存在と同じ構造へ変わっていくようだった。


 凛の足が、床の“下”に消えた。

 次に、膝が沈む。

 腰が沈む。

 胸が沈む。


 最後に、顔だけが残った。


 その顔の奥の白い構造が、

 ゆっくりと回転していた。


「佐伯さん」


 凛は微笑んだ。

 その笑みは、もう人のものではなかった。


「向こう側は……静かです。でも、何かが……います」


 その言葉に、悠の視界が揺れた。


 白い存在が、悠へ顔を向けた。

 その目の空洞が、悠の“奥”を見た。


 身体ではない。

 心でもない。

 もっと深い、存在の深度を。


 見られた瞬間、悠の足元が抜けた。


 落ちたのではない。深度が変わった。


 床が遠ざかり、天井が沈み、壁が折りたたまれるように狭まる。


 世界が、悠の周囲で形を変えていく。


「佐伯さん」


 凛の声が、深い場所から響いた。


「次は……佐伯さんの番です」


 白い存在の手が、悠の肩に触れた。


 その瞬間――世界が、音もなく沈んだ。

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