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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第44話

 世界が崩れるとき、音はしない。悠はそれを初めて知った。

 床が沈んだのでも、天井が落ちたのでもない。ただ、上下という概念が消えた。


 凛の姿が遠くで揺れている。遠いのに、手を伸ばせば触れられそうな距離。

 近いのに、どれだけ歩いても届かない距離。

 深度が、狂っていた。


「……佐伯さん」


 凛の声が、深い場所から響いた。水の底で聞く声のように、輪郭がぼやけている。


「来ないでください。まだ、佐伯さんは“こちら側”にいます」


 その言葉の意味が分からなかった。

 だが、凛の輪郭が薄く揺れているのを見て、悠は直感した。


 凛はもう、こちら側の存在ではない。


 白い存在が、凛の背後に立っていた。顔の空白には、目と口の“形”だけが浮かんでいる。

 表情はない。ただ、深度だけがある。

 その深度が、悠を見ていた。


 見られた瞬間、視界が揺れた。壁が波打ち、天井が遠ざかり、床が水面のように揺れる。

 世界が、深度を失っていく。


「……佐伯さん」


 凛が手を伸ばした。その指先は白く、光の層から浮いているようだった。


「来ないで。今、触れたら……佐伯さんも沈みます」


 沈む――その言葉が、妙に現実的だった。


 悠は一歩後ずさった。だが、後ずさったはずの床が、前へ動いた。

 世界が、悠の動きと逆方向へ滑っていく。


「……やめて……やめて……!」


 悠は叫んだ。だが、声は空気に吸われ、音にならなかった。

 白い存在が、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。


 その目の空洞が、悠の“奥”を見た。身体ではない。心でもない。もっと深い、存在の深度を。

 見られた瞬間、悠の足元が抜けた。


 落ちたのではない。深度が変わった。


 床が遠ざかり、天井が沈み、壁が折りたたまれるように狭まる。

 世界が、悠の周囲で形を変えていく。


「佐伯さん」


 凛の声が、どこか遠くで響いた。


「大丈夫。まだ戻れます。まだ“こちら側”にいます」


 その声は優しかった。だが、悠には分かった。凛はもう、こちら側の存在ではない。声だけが、こちら側に届いている。


 白い存在が、悠へ手を伸ばした。


 その指先が空気を押した瞬間――世界が反転した。


 床が天井になり、天井が床になり、壁が水のように揺れ、窓の外の闇が、部屋の中へ流れ込む。

 悠は立っているのか、沈んでいるのか分からなかった。

 上下の感覚が消え、視界の奥行きが反転し、凛の姿が、遠くで揺れていた。


「佐伯さん」


 凛の声が、深い場所から響いた。


「次は……佐伯さんの深度が変わります」


 白い存在の手が、悠の肩に触れた。その瞬間、悠の“現実”が、音もなく崩れた。

 世界が崩れたあと、悠はしばらく動けなかった。

 立っているのか、倒れているのか、浮いているのかすら分からない。

 ただ、視界の奥行きが反転し、遠いものが近く、近いものが遠く見える。


 深度が、壊れていた。


 凛の姿は、まだ見える。だが、距離が分からない。手を伸ばせば触れられそうなのに、歩いても歩いても近づかないような、奇妙な遠さ。


「……佐伯さん」


 凛の声が、深い場所から響いた。水の底で聞く声のように、輪郭がぼやけている。


「まだ、こちら側にいます。でも……長くはもちません」


 悠は口を開こうとしたが、声が出なかった。喉が塞がれたわけではない。音という概念が、世界から薄れていた。

 白い存在が、凛の背後に立っていた。顔の空白には、目と口の“形”だけが浮かんでいる。

 表情はない。ただ、深度だけがある。その深度が、悠を見ていた。見られた瞬間、視界が揺れた。壁が波打ち、天井が遠ざかり、床が水面のように揺れる。


 世界が、悠の周囲で形を変えていく。


「佐伯さん」


 凛が手を伸ばした。

 その指先は白く、光の層から浮いているようだった。


「来ないで。今、触れたら……佐伯さんも沈みます」


 沈む――その言葉が、妙に現実的だった。


 悠は後ずさろうとした。

 だが、後ずさったはずの床が、前へ動いた。

 世界が、悠の動きと逆方向へ滑っていく。


 凛の輪郭が、さらに薄くなる。光の層から剥がれ、向こう側の深度へ引かれていく。


「凛ちゃん……!」


 声にならない声が、空気に吸われた。白い存在が、凛の肩に手を置いた。その瞬間、凛の身体がふっと軽くなり、足元が床から離れた。


 浮いたのではない。深度が変わった。

 凛は、こちら側の深度から外れた。


「佐伯さん」


 凛の声は、もう“こちら側”の音ではなかった。

 どこか遠く、深い場所から響いている。


「私、行きますね」


 白い存在が、凛の背中を軽く押した。


 凛の身体が、ゆっくりと沈んでいく。

 床の下へではない。

 空気の層の下へ。

 こちら側の深度より、さらに下へ。


 沈むにつれ、凛の輪郭が薄れ、

 色が抜け、白い線だけが残っていく。


 まるで、向こう側の存在と同じ構造へ変わっていくようだった。


「凛ちゃん……戻って……!」


 悠は叫んだ。

 だが、声は空気に吸われ、音にならなかった。


 凛は振り返った。

 その瞳の奥の白い構造は、もはや“人の目”ではなかった。


「大丈夫です。佐伯さんは、まだこちら側にいます」


 その言葉は優しかった。だが、悠には分かった。


 凛はもう、こちら側の存在ではない。


 白い存在が、悠へ顔を向けた。

 その目の空洞が、悠の“奥”を見た。


 身体ではない。

 心でもない。

 もっと深い、

 存在の深度を。


 見られた瞬間、悠の足元が抜けた。


 落ちたのではない。

 深度が変わった。


 床が遠ざかり、天井が沈み、壁が折りたたまれるように狭まる。


 世界が、悠の周囲で形を変えていく。


「佐伯さん」


 凛の声が、深い場所から響いた。


「次は……佐伯さんの深度が変わります」


 白い存在の手が、悠の肩に触れた。


 その瞬間――世界が、音もなく反転した。

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