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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第43話

 凛の部屋の空気は、もはや“こちら側”のものではなかった。

 冷たく、重く、動かず、まるで深い水の底に沈んでいるような圧力があった。


 窓の外の闇は、深海のように濃く沈み、光を拒むように揺れもしない。


 ガラスの中央には、白い亀裂が走っていた。呼吸に合わせて脈打ち、震え、広がり、また縮む。まるで、そこに“心臓”があるかのように。


 ひゅう……

 すう……


 凛の呼吸と完全に同期していた。


 亀裂からは、すでに白い肩と、その上に“顔の輪郭”が覗いている。まだ目も鼻も口もない、空白の形。だが、その空白が、こちら側の空気を押していた。


「……凛ちゃん、もう離れよう。本当に、もう……」


 悠の声は震えていた。凛はゆっくりと振り返る。その瞳の奥の白い構造は、もはや“目”の形を成していた。黒目の奥で、細い白い線が絡み合い、こちら側を“見ている”。


「……佐伯さん。次で……開きます」


「開かなくていい。開いちゃだめだよ」


「……でも、呼んでるから」


 凛はガラスに手を触れた。その指先が白く染まる。


 その瞬間――亀裂が、ふっと“吸った”。


 空気が沈む。影が揺れる。温度が落ちる。

 そして――顔の輪郭の中央に、二つの“凹み”が現れた。最初は、ただの影のようだった。けれど、次の呼吸で――


 ひゅう……

 すう……


 凹みが、ゆっくりと“開いた”。


 白い線が集まり、目の形を作り、その奥に、深い空洞のような暗さが生まれる。

 視線はまだない。ただ、そこに“目の形”があるだけ。


 だが、次の瞬間――空洞が、こちら側を“見た”。

 悠は息を呑んだ。凛は微笑んだ。


「……見られました」


 白い目が、ゆっくりと動く。

 こちら側の空気を探るように、触れようとするように。

 ガラスの亀裂は、もう“境界”ではなかった。ただの“穴”になりつつあった。

 白い顔が、さらに押し出される。

 肩が抜け、胸の輪郭が覗き、腕がゆっくりとこちら側へ伸びる。


 その動きは、どこか“遅れて”いた。

 影と身体が同時に動いていないような、微妙なズレ。


「凛ちゃん、離れて……!」


 悠が凛の腕を掴んだ瞬間――白い存在が、初めて“音”を発した。


 コ……ン


 叩いたのではない。

“こちら側の空気に触れた結果、生まれた音”だった。


 凛の瞳の奥の白い構造が、ゆっくりと回転する。

 黒目の奥で、細い白い線が絡み合い、何かの“構造”を作り続けている。


「……佐伯さん。もう、止まりません」


 白い存在は、胸までこちら側へ出ていた。

 顔はまだ空白のまま。ただ、目だけがこちら側を見ている。

 その目は、“凛と同じ構造”を持っていた。


 凛は窓に手を重ねた。その指先が白く染まる。


「……呼んでるから」


 白い存在が、凛の手に触れようとした瞬間――部屋の空気が、ふっと沈んだ。


 床がわずかに軋む。壁が薄く震える。天井の影が、ゆっくりと形を変える。現実側が、変調を始めた。

 窓の外の闇が揺れ、白い目の線が、何度も浮かび上がる。


 凛の呼吸が深くなる。白い存在の呼吸が、それに合わせて変わる。


 ひゅう……

 すう……

 ひゅう……

 すう……


 呼吸が、完全に同期した。


 そして――白い存在は、凛の肩に手を置いた。


 その瞬間、凛の身体が、わずかに“沈んだ”。

 床にではない。空気の層の下へ。こちら側の深度より、少しだけ下へ。


「……佐伯さん」


 凛は振り返った。その瞳の奥の白い構造は、もう“人の目”ではなかった。


「次は……私が行きます」


 白い存在が、凛の背中に手を添えた。


 部屋の空気が、深く沈む。境界が、完全に開こうとしていた。凛の身体が沈んだ瞬間、部屋の空気が変わった。

 冷たさでも、暗さでもない。“深さ”が変わった。


 悠は思わず後ずさった。床が、まるで水面のようにわずかに揺れたからだ。


「……凛ちゃん、戻ろう。ここは……」


 言葉が続かなかった。凛の輪郭が、薄く揺れていた。光の層から少しだけ浮いているような、不安定な存在感。

 白い存在は、凛の背中に手を添えたまま、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。


 その顔には、まだ目以外のパーツがなかった。

 ただ、白い空白の中に、二つの深い空洞だけがあった。


 その空洞が、悠を“見た”。視線ではない。“深度”だった。


 見られた瞬間、悠の視界が揺れた。部屋の壁が、わずかに波打つ。天井の影が、ゆっくりと形を変える。

 まるで、世界そのものが“こちら側の深度”を失い始めているようだった。


「……佐伯さん」


 凛が振り返った。

 その瞳の奥の白い構造は、もはや“人の目”ではなかった。黒目の奥で、細い白い線が絡み合い、何かの“構造”を作り続けている。


「私、行きますね」


「行くって……どこに……?」


「向こう側です。だって、呼ばれてるから」


 凛は一歩、前へ踏み出した。

 その瞬間――床が、深く沈んだ。

 凛の足が沈んだのではない。床そのものが“深度を変えた”のだ。

 悠は思わず手を伸ばしたが、凛の身体は、まるで水の中にいるように、ゆっくりと沈んでいく。


「凛ちゃん……!」


「大丈夫です。佐伯さんは、まだ来なくていいです」


 凛の声は、どこか遠くから響いていた。部屋の空気が、深く沈む。窓の外の闇が、ゆっくりと形を変える。

 白い存在が、凛の肩に手を置いたまま、こちら側へ顔を向けた。


 その顔の空白に、口の位置に“裂け目”が生まれた。


 最初は、ただの影のようだった。けれど、次の瞬間――裂け目が、ゆっくりと開いた。音はしなかった。ただ、空気が沈んだ。


 凛の身体が、さらに深く沈む。床の深度が変わり、部屋の壁が、ゆっくりと波打つ。

 悠の視界が揺れた。天井の影が、形を変え続ける。


 まるで、世界そのものが“向こう側の深度”へ引かれているようだった。


「……佐伯さん」


 凛の声が、深い場所から響いた。


「次は、佐伯さんの番です」


 白い存在が、悠の方へ手を伸ばした。


 その指先が、空気を押した瞬間――部屋の深度が、完全に反転した。


 床が天井のように遠ざかり、壁が水のように揺れ、窓の外の闇が、部屋の中へ流れ込む。

 悠は立っているのか、沈んでいるのか分からなくなった。

 上下の感覚が消え、視界の奥行きが反転し、凛の姿が、遠くで揺れていた。


 白い存在の目が、悠を見た。その瞬間、悠の“現実”が、音もなく崩れた。

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