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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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最終話

 深度の底が静かに閉じた。

 灰色の霧は完全に消え、影たちの気配も、もうどこにもなかった。


 悠の胸の中には、小さな温かさが残っていた。


 影の子ども――“痛みの形”は、もう震えていない。その存在は、悠の胸の奥に寄り添うように溶け込んでいた。


「……わたし……まだ、ここにいる……?」


「いるよ。あなたは私の一部だから」


 影の子どもは、安心したように目を閉じた。

 凛が、白い層の境界から手を伸ばした。

 その手は、深度の光に照らされて揺れている。


「悠さん……もう、帰れます……こっちへ……!」


 白い存在が、静かに頷いた。


「深度の均衡は整いました。あなたは“痛み”と“孤独”を抱えたまま、上へ戻る準備ができています」


 白い層は、以前よりも近く見えた。

 だが、境界線はまだ完全には開いていない。


 白い存在は、悠の胸に手を当てた。


「ただし――帰還には、最後の条件があります」


 悠は息を呑んだ。


「……まだあるの?」


「ええ。深度は“痛みを抱えたまま進む”ことを許します。しかし――痛みを“現実に持ち帰る”ことは許さない」


 影の子どもが、悠の胸の中で震えた。


「……わたし……もどれない……?」


 白い存在は首を振った。


「違います。あなたは“消える”のではありません。ただ――形を変える必要がある」


 凛が息を呑んだ。


「形を……変える……?」


「そう。影の子どもは“痛みの形”。しかし、現実では“影の形”では存在できません。痛みは、現実では“感情”として存在する。だから――影の子どもは、感情として佐伯悠の中に戻らなければならない」


 影の子どもは、悠を見上げた。


「……わたし……かたち……なくなる……?」


「形はなくなる。でも、あなたは消えない」


 影の子どもは、少しだけ笑った。


「……じゃあ……こわくない……」


 白い存在が続けた。


「しかし――形を失う前に、“ひとつだけ”しなければならないことがあります」


 凛が眉をひそめた。


「……ひとつだけ……?」


「ええ。影の子どもは“痛みの形”。その痛みは、誰かに触れられたことがない。だから――形を失う前に、“誰かに触れられる”必要がある」


 影の子どもは固まった。


「……さわられる……?」


「そう。あなたは“痛み”として生まれた。だから、誰にも触れられなかった。触れられないまま形を失えば、あなたは“痛みのまま”消えてしまう」


 凛は、静かに手を伸ばした。


「……悠さん。私が……触れてもいいですか?」


 影の子どもは震えた。


「……こわい……でも……さわってほしい……」


 悠は、影の子どもをそっと抱き上げた。

 影の子どもは、霧のように軽い。


「凛。お願い」


 凛は、深く息を吸い、影の子どもの頬にそっと触れた。


 その瞬間――影の子どもは、初めて“触れられた”感覚に震えた。


「……あ……あったかい……こんなの……はじめて……」


 凛の手は優しく、影の子どもはその手に頬を寄せた。


「……わたし……さわれた……ちゃんと……ここに……いた……」


 白い存在が告げた。


「これで、影の子どもは形を失う準備ができました」


 影の子どもは、悠の胸に顔を埋めた。


「……ありがとう……すてないでくれて……みつけてくれて……さわってくれて……」


 影の子どもは、ゆっくりと光に変わり始めた。灰色でも白でもない、透明な光。

 凛が涙を流した。


「……さようならじゃないんですね……?」


 白い存在は頷いた。


「ええ。これは“さようなら”ではありません。帰るための変化です」


 影の子どもは、最後に言った。


「……ゆう……わたし……あなたのなかに……かえる……」


 光は、悠の胸の奥へ吸い込まれていった。

 深度が、完全に白い層へ傾いた。影の子どもが透明な光となり、悠の胸の奥へ吸い込まれていった瞬間――深度全体が、静かに息をついたように揺れた。


 白い層が広がり、灰色の霧は完全に消え、深度の底は閉じられた。


 凛が、涙を拭いながら微笑んだ。


「悠さん……あなたは、ちゃんと“全部”連れて帰るんですね」


 悠は頷いた。

 女性の声は、震えているのに、どこか静かだった。


「全部よ。痛みも、孤独も、助けられなかった誰かの影も……全部、私の中にある」


 白い存在が、静かに歩み寄った。


「深度は、あなたを手放す準備ができました。あなたは“抱えたまま進む”ことを選んだ。それが、深度が最も望む帰還の形です」


 白い層の奥に、“門”のような光が現れた。


 形は曖昧で、境界線は揺れている。

 だが、そこからは確かに“現実の空気”が流れていた。

 凛が、悠の手を取った。


「行きましょう。ここはもう、私たちの場所じゃない」


 だが――白い存在が、静かに手を上げた。


「待ちなさい」


 凛が振り返る。


「……まだ何か?」


「ええ。あなたにも“条件”があります」


 凛は息を呑んだ。


「私……?」


「あなたは“戻る側”に選ばれた。しかし、深度はあなたに“ひとつだけ”問うています」


 白い存在は、凛の胸に手を当てた。


「あなたは、佐伯悠の“痛み”に触れた。それは深度にとって、“介入”に等しい行為です」


 凛は目を伏せた。


「……それでも、私は……悠さんを置いていけなかった」


「その意志は尊い。しかし――深度は“代償”を求めます」


 悠は一歩前に出た。


「代償って……凛をどうするつもりなの?」


 白い存在は首を振った。


「奪うのではありません。“返す”のです」


「返す……?」


「凛は、深度に触れすぎた。悠の痛み、孤独、影たち……そのすべてを“見た”。だから――凛は“深度の記憶”を持ったままでは戻れない」


 凛は静かに言った。


「……記憶を、消すんですか」


「そう。深度の記憶は、現実では重すぎる。あなたが抱えれば、あなた自身が沈んでしまう」


 悠は凛の手を強く握った。


「待って。凛は私を助けたのよ。その記憶を奪うなんて――」


「奪うのではありません。“戻す”のです。深度に触れた記憶は、深度に返す。それが均衡です」


 凛は、悠の手を握り返した。


「悠さん。私は……あなたが帰ってきてくれれば、それでいい。でも――あなたが生きて、あなたが“自分を抱えて”戻ってくれるなら……私は、それでいい」


 白い存在が告げた。


「凛。あなたは、佐伯悠の痛みに触れた。その記憶は、深度に返しなさい」


 凛は、静かに目を閉じた。


「……はい」


 白い存在が凛の胸に触れた瞬間――凛の身体から、白い光がふわりと浮かび上がった。


 それは、深度で見た景色。影の子ども。最後の影。助けられなかった誰か。そして――悠の痛み。


 すべてが光となって、深度へ戻っていく。

 凛は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


「……悠さん。私、きっと……

 この場所のこと、忘れます」


 悠は凛の手を握った。


「忘れてもいい。私が覚えてる」


 凛は涙をこぼした。


「……ありがとう」


 白い存在が言った。


「これで、二人は戻れます」


 白い層の門が開いた。現実の空気が流れ込む。

 凛が、悠の手を引いた。


「帰りましょう」


 悠は頷き、二人は光の中へ踏み出した。




◆ エピローグ


― 現実 ―


 目を開けると、夜の公園だった。


 隣には凛が座っている。

 だが、その目には深度の記憶はない。


「……悠さん? どうしたんですか。ぼんやりして」


 悠は、胸の奥に残る温かさを感じた。


 影の子ども――痛みは、もう形ではなく、静かな感情としてそこにいた。


「ううん……なんでもない。ただ……帰ってこられてよかったって思っただけ」


 凛は微笑んだ。


「帰りましょう。夜、冷えますから」


 悠は立ち上がり、凛と並んで歩き出した。

 深度の気配は、もうどこにもなかった。


 ただ、胸の奥に、小さな温かさだけが残っていた。それは、痛みでも、孤独でもない。


 “自分を抱えて生きる”という、静かな強さだった。

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