第37話
その夜、悠は眠れなかった。
夕方に見た“裂け目”の光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。
凛の指先が白く染まり、空気が沈み、向こう側の匂いが漏れたあの瞬間。
――もう、境界は閉じていない。
その確信が、胸の奥で冷たく広がっていく。
深夜。
寮の廊下は静まり返っていた。
灯りは最低限だけが点いていて、影が長く伸びている。
悠は布団の中で目を閉じていたが、ふと、耳に違和感が走った。
……ひゅう……
……すう……
凛の呼吸ではない。
もっと遠く、もっと薄く、もっと冷たい音。
悠は布団から身を起こし、そっと扉を開けた。
廊下の奥から、白い気配が漂っていた。
光ではない。
影でもない。
ただ、空気の“密度”が違う。
凛の部屋の前だけ、空気が沈んでいる。
「……凛ちゃん?」
扉をノックすると、返事はなかった。
けれど、内側からかすかな呼吸が聞こえる。
ひゅう……
すう……
昼間よりも近い。
まるで、扉のすぐ裏側に“白い呼吸”が立っているようだった。
悠は意を決して扉を開けた。
凛はベッドの端に座っていた。
アヒルを抱いたまま、窓の外の一点を見つめている。
その姿は、夜の闇に溶け込むように薄かった。
「……佐伯さん」
凛は振り返った。
その瞳の奥の白い線は、もう“線”ではなく“模様”になっていた。
黒目の奥に、細い白い紋様が絡み合うように揺れている。
「……来てます」
「何が……?」
「……白い部屋の空気。さっきから……ここに」
凛は胸に手を当てた。
その指先が震えている。
「……窓の隙間から……入ってきてるんです。呼吸と一緒に」
ひゅう……
すう……
凛の呼吸に合わせて、部屋の空気がわずかに揺れた。
その揺れは、凛の背後の空気にも伝わり、
そこに“影の輪郭”を作りかける。
「凛ちゃん……怖くないの?」
「……怖くないです。だって……」
凛は窓の外を見つめた。
その視線は、夜の闇ではなく、もっと深い場所へ向けられている。
「……あれ、私の名前を呼んでます。声じゃなくて……空気で」
その瞬間、窓の外の闇がふっと揺れた。
白い線が、ほんの一瞬だけ浮かび上がる。
すぐに消えた。
けれど、確かにそこに“いた”。
悠は凛の手を握った。
その手は、夕方よりもさらに冷たかった。
深夜の凛の部屋は、静かすぎた。
外の風も、廊下の足音も、子どもたちの寝息も届かない。
まるで、部屋そのものが“別の層”に沈んでいるようだった。
凛はベッドの端に座り、アヒルを抱いたまま窓の外を見つめていた。
その背中は、昨日よりもさらに薄く、輪郭が揺れて見える。
夜の闇に溶けていくような、静かな消失。
「……凛ちゃん」
悠が声をかけると、凛はゆっくりと振り返った。
その瞳の奥の白い紋様は、もう“模様”ではなく“構造”になりつつあった。
黒目の奥で、細い白い線が絡み合い、何かの形を作ろうとしている。
「佐伯さん……見えますか?」
「何が……?」
「……窓の向こう。さっきから……立ってるんです」
凛は窓を指さした。
その指先は、夜の光の中でほとんど透けて見えた。
悠は窓の外を見た。
闇しかない。
ただ、街灯の光が遠くで揺れているだけ。
けれど――その闇の中に、ふっと“揺れ”が走った。
空気が沈むような感覚。
影が、そこにあるはずのない“形”を作りかけるような気配。
「……見えませんか?」
凛の声は静かだった。
怖がっているわけではない。むしろ、確かめるような響き。
「凛ちゃん……何が見えてるの?」
「……白い影です。人の形に……なりかけてる」
凛は窓に近づいた。
その動きは、どこか“遅れて”いるように見えた。
影と身体が同時に動いていないような、微妙なズレ。
「……さっき、目が合いました」
「目……?」
「……はい。白い線が……二つ。私を見てました」
その瞬間、窓の外の闇がふっと膨らんだ。
白い線が、ほんの一瞬だけ浮かび上がる。
縦に二つ。
人の目の位置に。
すぐに消えた。
けれど、確かにそこに“いた”。
「凛ちゃん、離れて……!」
悠が凛の腕を掴んだ。
その瞬間、窓の外の闇がわずかに揺れ、
白い線がもう一度だけ浮かび上がった。
今度は、少しだけ近い。
「……大丈夫。まだ……入ってきません」
凛はそう言ったが、その声はどこか遠く、まるで“向こう側”の空気を通って響いているようだった。
窓の外の影は、夜の闇の中で、静かに形を作り続けていた。
深夜の凛の部屋は、静かすぎた。
窓の外の闇は動かず、風も吹かず、虫の声すら聞こえない。
まるで、世界そのものが“呼吸を止めている”ようだった。
凛はベッドの端に座り、アヒルを抱いたまま窓を見つめていた。
その背中は、昨日よりもさらに薄く、輪郭が揺れて見える。
光の層から少しだけ浮いているような、不安定な存在感。
「……凛ちゃん、さっきの影……まだいるの?」
悠が声をかけると、凛はゆっくりと頷いた。
その瞳の奥の白い紋様は、もう“模様”ではなく“構造”になりつつあった。
黒目の奥で、細い白い線が絡み合い、何かの形を作ろうとしている。
「……います。窓のすぐ……手前に」
「手前……?」
「……はい。さっきより……近いです。ガラスの……すぐ向こう」
凛は窓に近づいた。
その動きは、どこか“遅れて”いるように見えた。
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