第36話
悠が近づくと、凛はゆっくりと振り返った。
その瞳の奥の白い光は、もう“光”ではなく“形”を帯びている。
黒目の奥に、細い線が絡み合うように揺れていた。
「佐伯さん……聞こえますか?」
「何が……?」
「……後ろの呼吸。さっきから……私と同じリズムなんです」
凛は胸に手を当てた。
その指先が、微かに震えている。
「……私が吸うと、あれも吸う。私が吐くと、あれも吐く。まるで……一緒に生きてるみたい」
ひゅう……
すう……
凛の背後の空気が、また脈打った。
今度は、悠にもはっきりと“揺れ”が見えた。
「……凛ちゃん、後ろに……何かいるの?」
「います。でも……まだ形になりきれないみたい」
凛はゆっくりと手を伸ばした。
背後に向けて、触れるように。
「……さっき、触れました。ほんの少しだけ。冷たくて……でも、懐かしい感じがしました」
悠の背筋が冷たくなった。
「凛ちゃん……それ、本当に大丈夫なの?」
「……分かりません。でも……」
凛は微笑んだ。
その笑みは、どこか遠く、静かで、“帰る場所”を思い出すような表情だった。
「……あれ、私の名前を呼んでます。声じゃなくて……呼吸で」
ひゅう……
すう……
凛の背後の空気が、また揺れた。
今度は、凛の肩がわずかに沈むほど強く。
悠は凛の手を掴んだ。
その手は、昼よりもさらに冷たかった。
「……佐伯さん」
凛は静かに言った。
「もうすぐ……形になります」
その瞬間、凛の背後の空気が、ほんの一瞬だけ“人の肩の高さ”で膨らんだ。
すぐに消えた。
けれど、確かにそこに“いた”。
夕方の園庭は、曇り空のせいで光が弱く、影が長く伸びていた。
子どもたちの声はあるのに、どこか遠く、薄い膜を通して聞こえるように歪んでいる。
悠は片付けをしながら、凛の姿を探した。
凛は、園庭の中央に立っていた。
アヒルを抱いたまま、空気の一点を見つめている。
その背中は、昨日よりもさらに薄く、輪郭が揺れて見えた。
「……凛ちゃん」
声をかけると、凛はゆっくりと振り返った。
その瞳の奥の白い光は、もう“光”ではなく“線”になっていた。
黒目の奥で、細い白い線が脈打つように揺れている。
「佐伯さん……聞こえますか?」
「何が……?」
「……入口の音。さっきから……脈打ってるんです」
凛は胸に手を当てた。
その指先が、微かに震えている。
「……私の呼吸と、後ろの影の呼吸と……入口の線の音が……全部、同じなんです」
ひゅう……
すう……
凛の呼吸に合わせて、園庭の空気がわずかに揺れた。
そして――凛の視線の先、空気の一点に、細い白い線が浮かび上がった。
昨日よりも太い。
昨日よりも明るい。
昨日よりも“生きている”。
白い線は、まるで心臓の鼓動のように脈打っていた。
ひゅう……
すう……
凛の呼吸と完全に同期している。
「……見えますか?」
凛の声は静かだった。
怖がっているわけではない。
むしろ、確かめるような響き。
「凛ちゃん……あれ、触ったら……」
「……分かりません。でも……」
凛はゆっくりと手を伸ばした。
白い線に触れようとするように。
「……呼吸が合ってるから。もう……近いんです」
その瞬間――白い線が、ふっと広がった。
ほんの一瞬。
ほんのわずか。
けれど、確かに“向こう側”の空気が漏れた。
冷たくて、静かで、どこか懐かしい匂いのする空気。
「……今、開きました」
凛の声は震えていなかった。
むしろ、落ち着いていた。
「佐伯さん。もうすぐ……全部、開きます」
白い線は、脈打つたびに少しずつ太くなっていく。
まるで、凛の呼吸に合わせて“成長”しているかのように。
悠は凛の手を掴んだ。
その手は、夕方の光の中で、ほとんど透けて見えた。
夕暮れの園庭は、光が弱く、影が濃かった。
子どもたちの声は遠く、風もほとんど吹いていない。
空気そのものが、どこか“薄い膜”に覆われているようだった。
凛は園庭の中央に立ち、アヒルを抱いたまま空気の一点を見つめていた。
その背中は、昨日よりもさらに薄く、輪郭が揺れて見える。
まるで、光の層から少しだけ浮いているようだった。
「……凛ちゃん」
悠が近づくと、凛はゆっくりと振り返った。
その瞳の奥の白い線は、もう“線”ではなく“裂け目”のように見えた。
黒目の奥で、細い白い亀裂が脈打つように揺れている。
「佐伯さん……聞こえますか?」
「何が……?」
「……入口の音。さっきから……開きかけてるんです」
凛は胸に手を当てた。
その指先が、微かに震えている。
「……呼吸が合ってるから。入口と、影と、私の……全部が」
ひゅう……
すう……
凛の呼吸に合わせて、空気が揺れた。
園庭の中央に、細い白い線が浮かび上がる。
昨日より太い。
昨日より明るい。
昨日より“生きている”。
白い線は、まるで心臓の鼓動のように脈打っていた。
「……見えますか?」
凛の声は静かだった。
怖がっているわけではない。
むしろ、確かめるような響き。
「凛ちゃん……あれ、触ったら……」
「……分かりません。でも……」
凛はゆっくりと手を伸ばした。
白い線に触れようとするように。
「……呼ばれてるから。“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……」
その瞬間――白い線が、ふっと裂けた。
ほんの一瞬。ほんのわずか。
けれど、確かに“向こう側”の空気が漏れた。
冷たくて、静かで、どこか懐かしい匂いのする空気。
凛の指先が白く染まり、園庭の影がわずかに沈んだ。
「凛ちゃん、だめ……!」
悠が凛の腕を掴んだ。
その瞬間、白い裂け目はふっと閉じた。
凛はゆっくりと手を下ろした。
その瞳の奥の白い線は、まだ脈打っている。
「……大丈夫。まだ……全部は開きません」
そう言った凛の輪郭は、夕暮れの光の中で、ほんの少しだけ透けて見えた。
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