第35話
夜の徘徊のあと、悠はほとんど眠れなかった。
凛の瞳に宿った白い光、廊下の奥を見つめるあの視線、
そして――園長の「止めないで」という言葉。
すべてが胸の奥で絡まり、ほどけないまま朝を迎えた。
朝の廊下は静かだった。
子どもたちの声が遠くから聞こえるのに、どこか薄い。
まるで、音そのものが“削られている”ような静けさ。
悠は凛の部屋の前で立ち止まった。
扉の向こうから、かすかな呼吸が聞こえる。
ひゅう……
すう……
昨日よりも、近い。
まるで、扉のすぐ裏側に“白い呼吸”が立っているようだった。
「……凛ちゃん?」
扉を開けると、凛は窓際に立っていた。
アヒルを抱いたまま、外の一点を見つめている。
その姿は、朝の光に馴染んでいなかった。
「佐伯さん……」
振り返った凛の瞳は、黒目の奥がほとんど白く染まっていた。
昨日まで“揺れていた光”が、今日は“形”を持ち始めている。
「……開きました」
「何が……?」
「……入口です。夜の間に……少しだけ」
凛は胸に手を当てた。
その指先が震えている。
「……ここまで来てるの。部屋の……中まで」
ひゅう……
すう……
呼吸の音が、凛の胸の奥だけでなく、部屋の空気そのものを震わせていた。
「凛ちゃん……見えるの?」
「……はい。白い線が……窓の外に。昨日より……ずっと太いです」
凛は窓に手を伸ばした。
その指先が、ガラスに触れる前に――空気が、ふっと裂けた。
細い白い線が、窓の外に浮かび上がった。
裂け目のようで、光のようで、影のようで。
しかし確かに“向こう側”の気配を帯びていた。
「……見えますか?」
凛の声は震えていなかった。
むしろ、懐かしいものを見つけたように静かだった。
悠には何も見えない。
けれど、空気が冷たくなったのは分かった。
「……触ったら……どうなるの?」
悠の声は、自分でも驚くほど弱かった。
「……分かりません。でも……」
凛はゆっくりと手を伸ばした。
「……呼ばれてるから」
その瞬間――白い線が、かすかに開いた。
ほんの一瞬。
ほんのわずか。
けれど、確かに“向こう側”が覗いた。
凛の指先が白く染まり、部屋の空気がふっと沈んだ。
「凛ちゃん、だめ……!」
悠が凛の腕を掴んだ。
その瞬間、白い線はふっと閉じた。
凛はゆっくりと手を下ろした。
「……大丈夫。まだ……全部は開きません」
そう言った凛の輪郭は、朝の光の中で、ほんの少しだけ薄く見えた。
午前の保育室は、曇り空のせいで光が弱かった。
子どもたちは遊んでいるはずなのに、どこか落ち着かず、時折ちらりと凛の方を見ては、すぐに視線を逸らす。
その空気のざわつきは、昨日よりもはっきりしていた。
凛は窓際に座り、アヒルを抱いたまま外を見ていた。
その姿は、朝よりもさらに薄く、輪郭が揺れて見える。
まるで、光の中に“別の層”が混ざっているようだった。
「……凛ちゃん、大丈夫?」
悠が声をかけると、凛はゆっくりと振り返った。
その瞳の奥で揺れる白い光は、もう“揺れ”ではなく“形”を持ち始めている。
黒目の奥に、細い線のようなものが浮かんでいた。
「佐伯さん……」
凛は胸に手を当てた。
その指先が、かすかに震えている。
「……さっきから、後ろにいるんです」
「後ろ……?」
「……はい。私の……すぐ後ろに」
悠は思わず凛の背後を見た。
そこには何もない。
ただ、窓から差し込む弱い光が床に落ちているだけ。
けれど――その光の中に、ほんの一瞬だけ“揺れ”が走った。
空気が、ふっと沈むような感覚。
影が、そこにあるはずのない“形”を作りかけるような気配。
「……見えませんか?」
凛の声は静かだった。
怖がっているわけではない。
むしろ、確かめるような、受け入れるような響き。
「凛ちゃん……何が見えてるの?」
「……白い影です。人の形に……なりかけてる」
凛はゆっくりと手を伸ばした。
背後に向けて、触れるように。
「……さっき、触れそうになりました。でも……まだ遠い。あと少しで……届く」
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の胸の奥で震えた。
その音に合わせて、凛の背後の空気がわずかに揺れた。
悠は息を呑んだ。
見えないはずの“何か”が、確かにそこにいる。
凛の背中に寄り添うように、静かに立っている。
「……怖くないの?」
「……怖くないです。だって……」
凛は微笑んだ。
その笑みは、どこか遠く、懐かしいものを思い出すようだった。
「……ずっと前から、ここにいた気がするから」
その言葉と同時に、凛の背後の空気が、ほんの一瞬だけ“人の輪郭”を描いた。
すぐに消えた。
けれど、確かにそこに“いた”。
悠は凛の手を握った。
その手は、朝よりもさらに冷たかった。
午後の空は、曇りというより“薄い膜”に覆われているようだった。
光が弱く、影が濃く、空気がどこか重い。
子どもたちの声も、いつもより少しだけ低く響いていた。
悠は保育室の隅から凛を見つめていた。
凛は窓際に座り、アヒルを抱いたまま外を見ている。
その背中は、朝よりもさらに薄く、輪郭が揺れて見えた。
そして――凛の背後の空気が、かすかに脈打っていた。
ひゅう……
すう……
凛の呼吸と同じリズムで、空気が揺れる。
まるで“影”が呼吸しているように。
「……凛ちゃん」
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