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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第34話

 午後の保育室は、曇り空のせいで薄暗かった。

 窓の外には灰色の雲が幾重にも重なり、空の高さを感じさせなかった。

 光はガラスを通るうちに力を失い、床の上に落ちる頃には冷たい色へと変わっていた。


 子どもたちは遊んでいるふりをしながら、時折ちらりと凛の方を見ては、すぐに視線を逸らす。

 積み木を持つ手は落ち着かず、小さな指先が意味もなく角をなぞっている。

 笑い声は上がってもすぐに途切れ、部屋の隅へ沈んでいった。


 その空気の重さを、園長は静かに見つめていた。

 逆光の中で、その表情は半分が影に溶けている。

 微笑んでいるはずなのに、その奥にあるものは読み取れなかった。


「佐伯さん、少しお話ししましょうか」


 園長の声はいつも通り穏やかだった。

 その声は柔らかく、角がなく、耳に心地よく届く。


 けれど、その穏やかさが今日はどこか“深い”ように感じられた。

 まるで、水面の下にもう一つの暗い層が隠れているようだった。


 悠は凛を気にしながらも、園長に促されて廊下へ出た。

 廊下に出た瞬間、空気の温度がわずかに低いことに気づく。

 閉められた扉の向こうで、子どもたちの気配だけがぼんやりと滲んでいた。


「……凛ちゃん、最近どうかしら?」


 園長は微笑んでいた。

 その微笑みは形としては優しいのに、目の奥だけが静まり返っている。


 その笑みは優しいのに、どこか“観察している”ような静けさがあった。

 まるで、反応を待っている観測者のようだった。


「子どもたちが……少し怖がっていて。凛ちゃん自身も、なんだか……」


 悠が言い淀むと、園長はゆっくり頷いた。

 その動きは迷いがなく、予想していた答えを確認するようだった。


「ええ、分かります。あの子、少し……敏感になっているのね」


 敏感。

 その言葉は、まるで凛の変調を“自然なこと”として包み込むようだった。

 異常ではなく、成長の一部であるかのように。


「でもね、佐伯さん。あの子は大丈夫よ。こういう時期は、そっとしておくのが一番」


 園長の声は柔らかい。

 その声は温度を持っているはずなのに、なぜか悠の皮膚の表面だけを冷やした。


 けれど、その柔らかさが、悠の胸に妙な違和感を残した。

 言葉は安心を与える形をしているのに、心はそれを受け取ろうとしなかった。


「……そっと、ですか?」


「ええ。無理に引き戻そうとすると、かえって不安定になるわ。あの子は……自分で戻ってくるから」


 その言葉は、優しいのに、どこか“確信”に満ちていた。

 未来を知っている者の口調だった。


 まるで凛の状態を、園長だけが正確に理解しているかのように。

 その理解は、説明ではなく“既知”の響きを持っていた。


 悠は思わず凛の方を振り返った。

 窓からの弱い光が、凛の周囲だけ薄く漂っている。


 窓際に座る凛は、外の一点を見つめたまま動かない。

 風で木の枝が揺れても、凛の視線はそれを追わなかった。


 その姿は、現実の光に馴染んでいなかった。

 そこだけ、違う時間が流れているようだった。


「……園長先生。凛ちゃん、何か……見えてるみたいで」


「ええ、そうでしょうね」


 園長は微笑んだ。

 その表情には、驚きは微塵もなかった。


 その笑みは、まるで“知っていた”と言わんばかりだった。

 むしろ、それを待っていたかのようだった。


「でも心配はいらないわ。あの子は……呼ばれているだけだから」


 呼ばれている。

 その言葉が、悠の背筋を冷たく撫でた。

 見えない指先で、ゆっくりとなぞられたようだった。


「……呼ばれてるって、誰に……?」


 園長は答えなかった。

 沈黙が、廊下の奥へ伸びていく。


 ただ、凛の方を見つめたまま、静かに言った。

 その目は、遠くを見る者の目だった。


「佐伯さん。あの子を止めようとしないであげて。今は……その時じゃないの」


 その声は優しいのに、どこか“拒絶”のような響きを含んでいた。

 見えない境界線が、そこに引かれた気がした。


 悠は言葉を失った。

 喉の奥がわずかに乾いていることに気づく。


 園長の言葉は、凛を守るためのものなのか、それとも――凛を“向こう側”へ近づけるためのものなのか。


 判断がつかなかった。

 考えようとするほど、思考は霧の中に沈んでいった。


 ただ、凛の背中が、窓の光の中で少しだけ薄く見えた。輪郭が光に溶け、背景との境界が曖昧になっていた。


 夜の寮は静まり返っていた。

 建物全体が眠っているように、音が存在しなかった。 窓の外では、雲に覆われた空がわずかに明るんでいるだけで、月の姿は見えなかった。

 代わりに、ぼんやりとした白い光が雲の向こうに滲み、建物の輪郭を鈍く浮かび上がらせている。


 風はほとんどない。

 それでも、ときおりどこからか空気が流れ込み、廊下の奥で小さな軋みを生んだ。


 ……ミシ……


 古い床板が、誰もいないはずの場所で鳴る。


 悠は目を閉じたまま、その音を聞いていた。

 気のせいだと思おうとするほど、耳は次の音を待ってしまう。


 寮全体が、静かに息を潜めている。


 壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、やけに大きく響いていた。


 ……コチ、……コチ、……コチ……


 規則正しいはずの音が、今は何かを数えているように聞こえる。


 時間が進んでいるというより、

 何かが近づいている――そんな錯覚が、暗闇の中でゆっくりと形を持ちはじめていた。


 廊下の灯りは最低限だけが点いていて、影が長く伸びている。

 その影は床の上を這い、壁の途中で途切れている。


 悠は布団の中で目を閉じていたが、眠れなかった。

 布団の中の空気は温かいのに、心だけが冷えたままだった。

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