第33話
朝の食堂には、いつもより静かな空気が漂っていた。
子どもたちの声はあるのに、どこか遠く、薄い膜を通して聞こえるように歪んでいる。
悠は配膳をしながら、ふと気づいた。
「……凛ちゃん、来てない」
いつもなら一番に席に着いて、アヒルを膝に置いて待っているはずの凛が、どこにもいない。
園長も気づいたようで、穏やかな声で言った。
「まだ眠っているのかもしれないわ。見てきてくれる?」
悠は頷き、凛の部屋へ向かった。
廊下は朝なのに薄暗く、空気が重い。
扉の前に立つと、内側からかすかな呼吸の音が聞こえた。
ひゅう……
すう……
悠は息を呑んだ。
そのリズムは、昨日凛の胸から漏れた“白い呼吸”と同じだった。
「凛ちゃん……?」
扉を開けると、凛はベッドの端に座っていた。
アヒルを抱いたまま、窓の外の一点を見つめている。
その姿は、まるで“朝”という時間に属していないようだった。
「……佐伯さん」
凛はゆっくりと振り返った。
瞳の奥に、白い光が揺れている。
昨日よりも、はっきりと。
「どうしたの……? 朝ごはん、来ないから心配で」
「……声がね」
凛は胸に手を当てた。
「……昨日より近いの。ここまで……来てる」
ひゅう……
すう……
凛の胸の奥で、白い呼吸が微かに震えた。
その音は、部屋の空気をわずかに揺らすほどに近かった。
「凛ちゃん……苦しいの?」
「……ううん。ただ……」
凛は窓の外を見つめたまま、言葉を探すように口を開いた。
「……朝なのに……白い部屋の匂いがするの。ここにも……少しだけ、重なってる」
悠は返す言葉を失った。
凛の声は静かで、落ち着いていて、まるで“現実の朝”よりも、別の場所の朝を生きているようだった。
「……行かなきゃいけない気がするの。でも……まだ……」
凛の言葉はそこで途切れた。
まるで、その先を言うことが“呼び声”に触れてしまうかのように。
悠は凛の手をそっと握った。
その手は、昨日よりも冷たかった。
午前の園庭は、曇り空のせいで光が弱く、影が濃かった。
子どもたちは遊具の周りに集まっていたが、どこか落ち着かず、ひそひそと声を潜めている。
悠が近づくと、子どもたちは一斉に視線を逸らした。
「どうしたの?」そう声をかけると、ひとりの女の子が小さく囁いた。
「……凛お姉ちゃん、なんか……怖い」
その言葉に、悠の胸がざわついた。
視線の先には、アヒルを抱いた凛がいた。
園庭の端で、空気の一点を見つめている。
まるで、そこに“誰か”が立っているかのように。
「怖いって……どうして?」悠が尋ねると、別の子が言った。
「だって……目が……白いよ。昨日より……もっと」
悠は息を呑んだ。
凛の瞳は、確かに白い光を帯びていた。
黒目の奥で揺れるその光は、子どもたちの目にもはっきりと見えてしまうほど強くなっていた。
「……凛ちゃん」
悠が近づくと、凛はゆっくりと振り返った。
その動きは、どこか“遅れて”いるように見えた。
影と身体が同時に動いていないような、微妙なズレ。
「佐伯さん……みんな、見てます」
凛は小さく呟いた。
その声は、傷ついた子どものように弱かった。
「怖いって……言われました」
アヒルを抱く腕が、わずかに震えている。
凛は子どもたちの視線を避けるように、俯いた。
「……私、変なんです。分かってます。でも……」
凛は胸に手を当てた。
「……声が……近いから。それだけで……落ち着くんです」
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の胸の奥で微かに震えた。
その音は、子どもたちには聞こえないはずなのに、なぜか園庭の空気が一瞬だけ揺れたように感じられた。
子どもたちは凛から距離を取り、凛はその距離を見つめたまま、何も言わなかった。
その沈黙は、“孤立”という言葉よりもずっと静かで、ずっと深かった。
昼下がりの保育室は、いつもより静かだった。
子どもたちは遊んでいるはずなのに、どこか落ち着かず、時折ちらりと凛の方を見ては、すぐに視線を逸らす。
その空気の重さが、悠の胸にじわじわと染み込んでいく。
凛は窓際に座り、アヒルを抱いたまま外を見ていた。
その姿は、まるで“ここではないどこか”の景色を眺めているようで、現実の光に馴染んでいなかった。
「……凛ちゃん」
声をかけると、凛はゆっくりと振り返った。
その瞳の奥で揺れる白い光は、朝よりも強くなっている。
黒目の奥に“別の層”が透けて見えるような、そんな不安定な輝き。
「佐伯さん……」
凛の声は、どこか遠かった。
現実の空気を通っていないような、薄い響き。
「今日……子どもたちが、ちょっと怖がってたよ。凛ちゃんのことじゃなくて……その、目が……」
言いながら、悠は胸が痛んだ。
凛を責めたいわけじゃない。
ただ、何かが確実に“変わってきている”のを、もう無視できなかった。
凛は少しだけ俯いた。
「……分かってます。私……変なんです」
「変じゃないよ。ただ……何が起きてるのか、教えてほしいの。私、凛ちゃんのこと……ちゃんと知りたいから」
凛は胸に手を当てた。
その指先が、わずかに震えている。
「……声がね。朝より……もっと近いんです。ここまで……来てる」
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の胸の奥で微かに震えた。
その音は、保育室の空気をほんの少しだけ揺らした。
「……呼ばれてるの。“こっちだよ”って。“もうすぐだよ”って」
凛は窓の外を見つめた。
その視線は、園庭の向こう側ではなく、もっと遠く、もっと深い場所へ向けられているようだった。
「凛ちゃん……行きたいの?」
悠は、聞きたくない質問を口にしていた。
でも、聞かずにはいられなかった。
凛は少しだけ目を閉じた。
そのまつげが震え、白い光が瞳の奥で揺れた。
「……分かりません。でも……行かないといけない気がするんです。理由は……まだ、分からないけど」
その言葉は、静かで、確信に満ちていて、
そして――どこか“別れ”の匂いがした。
悠は凛の手を握った。
その手は、朝よりも冷たかった。
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