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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第32話

 翌朝の箱庭園は、昨日よりも静かだった。

 曇り空の下、光は薄く、影は深く沈み、風の音はどこか遠い。

 子どもたちの声は聞こえるのに、その響きが膜越しのように歪んでいた。


 凛は中庭の端に立ち、アヒルを抱いたまま空気の一点を見つめていた。

 その姿は、昨日よりもさらに軽く、輪郭が薄い。

 まるで、身体の半分が“こちら側”から剥がれ落ちているようだった。


「凛ちゃん……昨日のこと、覚えてる?」


 悠がそっと声をかけると、凛はゆっくりと振り返った。

 その瞳は、黒目の奥に白い光が揺れ、焦点が定まらない。


「……覚えてます。入口が……開きかけてました」


 凛は胸に手を当てた。


「……ここに……まだ残ってます。白い呼吸の……残響みたいなものが」


 ひゅう……

 すう……


 凛の胸の奥から、かすかな白い呼吸が漏れた。

 昨日よりは弱い。

 けれど、確かに“向こう側”の気配を残していた。


「凛ちゃん……苦しくない?」


「……苦しくないです。ただ……」


 凛は空気の一点を見つめた。


「……入口の跡が……まだ見えます」


 悠には何も見えない。

 しかし、凛の視線は確かに“何か”を捉えていた。


「……薄い膜みたいなのが……揺れてます。触ると……冷たいです」


 凛は手を伸ばした。

 空気を撫でるように、ゆっくりと。


「凛ちゃん、だめ……!」


 悠が腕を掴むと、凛の身体はふっと揺れた。

 しかし、昨日のように沈み込むことはなかった。


「……大丈夫です。今日は……入口が開きません」


 凛は静かに言った。


「……でも……近いです。昨日より……ずっと」


 その瞳には、現実の景色と白い部屋の景色が重なっていた。


 昼下がりの箱庭園は、曇り空のせいかいつもより暗かった。


「凛ちゃん……?」


 声をかけると、凛はゆっくりと振り返った。

 その瞳は、黒目の奥に白い光が揺れ、焦点が合っていない。

 現実の景色を見ているようで、見ていない。


「……揺れてます」


「何が……?」


「……入口です。さっきから……ずっと揺れてます」


 凛は空気の一点を指差した。

 悠には何も見えない。

 しかし、凛の指先は震えていた。


「……薄い膜みたいなのが……波みたいに揺れてます。触ると……冷たいです」


 凛は手を伸ばした。

 空気を撫でるように、ゆっくりと。


「凛ちゃん、だめ……!」


 悠が腕を掴むと、凛の身体はふっと揺れた。

 しかし、昨日のように沈み込むことはなかった。

 ただ、凛の輪郭が一瞬だけ薄くなった。


「……大丈夫です。今日は……開きません」


 凛は静かに言った。


「……でも……近いです。昨日より……ずっと」


 その声は、どこか遠くから響いているようだった。


「凛ちゃん……怖くないの?」


「……怖くないです。だって……」


 凛は胸に手を当てた。


「……呼んでます。“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……」


 ひゅう……

 すう……


 凛の胸の奥から、白い呼吸が漏れた。

 昨日より弱いが、確かに“向こう側”の気配を残していた。


「……聞こえるんです。ずっと……」


 悠は言葉を失った。

 凛の声は静かで、落ち着いていて、まるで“帰る場所”を見つけた人のようだった。


「……入口は……すぐ開きます」


 凛は空気の一点を見つめたまま、そう呟いた。

 夕方の箱庭園は、曇り空のせいで昼よりも暗く感じられた。

 子どもたちが帰ったあとの静けさは、いつもなら心地よいはずなのに、今日はどこか不穏だった。

 悠は片付けをしながら、凛の姿を探していた。


 凛は、園庭の隅に立っていた。

 アヒルを抱いたまま、空気の一点を見つめている。

 その姿は、昨日よりもさらに薄く、輪郭が揺れて見えた。


「凛ちゃん……?」


 声をかけると、凛はゆっくりと振り返った。

 その動きは、どこか“遅れて”いるように見えた。

 まるで、凛の身体と影が同時に動いていないような。


「……佐伯さん」


 凛の声は静かで、遠かった。


「……今日、変じゃなかった?」


「変って……?」


「……身体が……軽いんです。ここにいるのに……全部じゃないみたいで」


 凛は自分の腕を見つめた。

 その腕は、夕方の光の中でほんの少しだけ透けて見えた。


「凛ちゃん……腕……」


「……見えますか?」


「うん……なんか……薄い……」


 凛はゆっくりと頷いた。


「……入口の……圧が強いんです。近くにいると……身体が……向こう側に引かれます」


 ひゅう……

 すう……


 凛の胸の奥から、かすかな白い呼吸が漏れた。

 昨日より弱いが、確かに“向こう側”の気配を残していた。


「……怖くないの?」


「……怖くないです。だって……」


 凛は空気の一点を見つめた。


「……呼んでます。“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……」


 悠は震えた。

 凛の声は静かで、落ち着いていて、まるで“帰る場所”を見つけた人のようだった。


「凛ちゃん……お願いだから……」


「……大丈夫です。まだ……入れませんから」


 凛はそう言ったが、その輪郭は、夕方の光の中で確かに揺れていた。


 その日の夕暮れは、いつもより早く訪れたように感じられた。

 空は薄い灰色で、園庭の影は長く伸び、風はほとんど吹いていない。

 悠は片付けを終え、凛の姿を探した。


 凛は、園庭の中央に立っていた。

 アヒルを抱いたまま、空気の一点をじっと見つめている。

 その姿は、昨日よりもさらに薄く、輪郭が揺れて見えた。


「凛ちゃん……?」


 声をかけると、凛はゆっくりと振り返った。

 その瞳は、黒目の奥に白い光が揺れ、焦点が合っていない。

 まるで、現実と“向こう側”の両方を同時に見ているようだった。


「……佐伯さん。今日……一瞬だけ……開きました」


「開いた……?」


「……はい。白い線が……ほんの少しだけ……裂けました」


 凛は空気の一点を指差した。

 悠には何も見えない。

 しかし、凛の指先は震えていた。


「……ここに……薄い線がありました。触ったら……冷たくて……そのあと……少しだけ……広がりました」


 凛は胸に手を当てた。


「……白い呼吸が……強くなりました。でも……すぐ閉じました」


 ひゅう……

 すう……


 凛の胸の奥から、かすかな白い呼吸が漏れた。

 昨日より弱いが、確かに“向こう側”の気配を残していた。


「凛ちゃん……怖くないの?」


「……怖くないです。だって……」


 凛は空気の一点を見つめた。


「……呼んでます。“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……」


 その声は静かで、落ち着いていて、まるで“帰る場所”を見つけた人のようだった。


「凛ちゃん……お願いだから……」


「……大丈夫です。まだ……入れませんから」


 凛はそう言ったが、その輪郭は、夕暮れの光の中で確かに揺れていた。


「……でも……入口は……すぐ開きます」


 その言葉は、静かで確信に満ちていた。

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