第31話
その日の箱庭園は、朝から空気が薄かった。
曇り空の下、光は弱く、影は深く沈み、風の音はどこか遠い。
子どもたちの声は聞こえるのに、その響きが膜越しのように歪んでいた。
凛は中庭の中央に立ち、アヒルを抱いたまま動かなかった。
その姿は、昨日までの凛とは明らかに違っていた。
背筋はまっすぐなのに、どこか“重力を失った”ような軽さがあった。
「……佐伯さん」
凛が呼んだ。
その声は、いつもの凛の声ではなかった。
響きが薄く、遠く、どこか“別の層”から届いているようだった。
「凛ちゃん……どうしたの?」
悠が近づくと、凛はゆっくりと振り返った。
その瞳は、黒目の奥に白い光が揺れていた。
まるで、瞳の奥に“別の景色”が映っているようだった。
「……見えます」
「何が……?」
「……白い部屋です。昨日より……近いです」
凛は胸に手を当てた。
「……ここが……白くなってます」
その瞬間――凛の胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の身体の内側で響いていた。
「凛ちゃん……苦しくないの?」
「……苦しくないです。むしろ……軽いです」
凛は一歩、前に出た。
その足は、現実の地面を踏んでいるはずなのに、
白い床を踏んでいるように沈んだ。
「凛ちゃん……足……」
「……沈んでます。でも……落ちてはいません」
凛は自分の足元を見つめた。
そこには芝生がある。
けれど、凛の視界には“白い床”が重なって見えていた。
「……二つの床が……あります」
悠は凛の腕を掴んだ。
しかし――凛の腕は、昨日よりもさらに軽かった。
まるで、凛の身体の半分が“こちら側”から剥がれ落ちているようだった。
「凛ちゃん……戻ってきて……」
「……戻ってますよ。でも……」
凛はゆっくりと首を傾けた。
「……全部には戻れません」
その言葉は、あまりにも静かで、あまりにも確信に満ちていた。
そのとき――
空気がふっと揺れた。
中庭の中央に、細い白い線が浮かび上がった。
裂け目のようで、光のようで、影のようで。
しかし、確かに“向こう側”の気配を帯びていた。
「……入口です」
凛はその白い線を見つめた。
「……白い部屋の……入口です」
「凛ちゃん、近づいちゃだめ!」
悠が腕を引いた。
しかし、凛の身体はほとんど動かなかった。
「……大丈夫です。まだ……入れません」
凛は白い線に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、空気がふっと震えた。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、裂け目の奥から漏れた。
「……あ……」
凛の指先が白く染まった。
「凛ちゃん、離れて!」
悠が凛の手を掴んだ。
その瞬間、白い線はふっと消えた。
凛はゆっくりと手を下ろした。
「……入口は……まだ開きません。でも……すぐです」
凛の声は、どこか遠くから響いているようだった。
「……白い人が……立ってます」
「凛ちゃん、誰もいないよ……!」
「……います。入口の向こうに……輪郭だけ」
凛は胸に手を当てた。
「……呼んでます。“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……」
悠は震えた。
「凛ちゃん……お願いだから……」
「……大丈夫です。まだ……入れませんから」
凛は静かに言った。
「……でも……入口は……すぐ開きます」
その瞳には、現実の景色と白い部屋の景色が重なっていた。
白い線が消えたあとも、中庭の空気はどこか薄く、揺れていた。
凛はその場に立ち尽くし、胸に手を当てたまま、ゆっくりと呼吸を繰り返していた。
ひゅう……
すう……
その呼吸は、現実の空気とは違うリズムを刻んでいた。
「凛ちゃん……本当に大丈夫なの?」
悠が問いかけると、凛はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、黒目の奥に白い光が揺れ、焦点が定まらない。
まるで、現実と“向こう側”の両方を同時に見ているようだった。
「……大丈夫です。ただ……」
「ただ……?」
「……入口が……近いです」
凛は空気の一点を見つめた。
そこにはもう白い線はない。
しかし、凛の視線は“何か”を捉えていた。
「……見えてるの?」
「……はい。入口の……残り香みたいなものが」
凛は手を伸ばした。
空気を撫でるように、ゆっくりと。
「……ここに……薄い膜があります。触ると……冷たいです」
悠には何も感じられない。
けれど、凛の指先は確かに“何か”に触れているように震えていた。
「凛ちゃん……それ、本当に……?」
「……本当です。昨日より……はっきりしてます」
凛は胸に手を当てた。
「……白い呼吸が……ここに入ってきてます」
ひゅう……
すう……
凛の胸の奥から、白い呼吸が漏れた。
その音は、現実の空気とは違う、深く静かな響きだった。
「凛ちゃん……怖くないの?」
「……怖くないです。だって……」
凛は空気の一点を見つめた。
「……白い人が……立ってます」
「凛ちゃん、誰もいないよ……!」
「……います。輪郭だけ……ぼんやりと」
凛の声は震えていなかった。
むしろ、懐かしいものを見つけた子どものように、静かで落ち着いていた。
「……昨日より……近いです」
凛は一歩、前に出た。
その足は、芝生の上にあるはずなのに、白い床を踏んでいるように沈んだ。
「凛ちゃん、だめ……!」
悠が腕を掴んだ。
しかし、凛の身体は軽く、引いてもほとんど動かなかった。
「……大丈夫です。まだ……入れません」
凛は静かに言った。
「……入口は……薄いだけです。開くには……まだ少し足りません」
「足りないって……何が?」
「……呼び声です。もっと……近くならないと」
凛は胸に手を当てた。
「……でも……すぐです」
そのとき――中庭の向こうから、園長の声が響いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
その声が届いた瞬間、凛の身体がふっと揺れた。
「……あ……」
凛は胸を押さえた。
「凛ちゃん、大丈夫?」
「……園長先生の声……白い呼吸と……ぶつかります」
「ぶつかる……?」
「……はい。白い呼吸が……少しだけ……後ろに下がりました」
凛はゆっくりと振り返った。
園長はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
「凛ちゃん、無理しなくていいのよ」
その声は優しい。
けれど、凛の瞳には、園長の影が白く揺れて見えていた。
「……園長先生……」
「どうしたの?」
「……影が……白いです」
園長は微笑んだまま、首を傾けた。
「影……?」
「……はい。白い部屋の……影と……似てます」
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん、それって……」
「……分かりません。でも……園長先生の声は……白い呼吸を……押します」
園長は何も言わなかった。
ただ、凛の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫よ、凛ちゃん。あなたは……ちゃんとここにいるわ」
その瞬間――凛の胸の奥で、白い呼吸がふっと揺れた。
「……あ……」
凛は目を閉じた。
「……白い入口が……遠くなりました」
園長の手が離れると、凛はゆっくりと目を開けた。
「……でも……またすぐ……近づきます」
凛は静かに言った。
「……入口は……もうすぐ開きます」
その瞳には、現実の景色と白い部屋の景色が重なっていた。
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