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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第30話

 その日の箱庭園は、朝から光が揺れていた。

 曇り空の下、影は濃く沈み、風の音はどこか遠い。

 子どもたちの声は聞こえるのに、その響きが薄く、まるで深い水の底から届いているようだった。


 凛は中庭の中央に立ち、アヒルを抱いたまま空気を見つめていた。

 その瞳は、これまでとは違う“深さ”を帯びていた。


「……見えます」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


「凛ちゃん……何が見えるの?」


 悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……底です。白い底が……はっきり見えます」


 その瞬間――凛の視線の先の空気が、ふっと歪んだ。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、現実の空気に混じった。

 凛は瞬きもせず、空気の一点を見つめていた。


「……部屋があります」


「部屋……?」


「……はい。白い部屋です。床も……壁も……全部白いです」


 悠には何も見えない。

 けれど、凛の声は“見えている人間の声”だった。


「……誰かいます」


「誰かって……」


「……私を呼んでる人です」


 凛は胸に手を当てた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……言ってます」


 その瞬間――凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 影の中から、白い光が立ち上った。


 今までの“揺らぎ”とは違う。

 それは、はっきりとした“形”を持っていた。


 白い床。

 白い壁。

 白い天井。


 凛の視界にだけ、別の部屋が重なっていた。


「……あ……」


 凛の瞳が揺れた。


「……見えます。部屋の真ん中に……誰か立ってます」


「凛ちゃん、誰が……?」


「……白い人です。顔は……見えないけど……私を見てます」


 凛は一歩、前に出た。


 その動きは、まるで“白い部屋の中”を歩いているようだった。


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が腕を掴んだ瞬間――凛の身体がびくりと震えた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です。でも……」


 凛はゆっくりと胸に手を当てた。


「……白い部屋の空気が……ここに入ってきてます」


 その瞬間――凛の胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、凛の身体の内側で響いている。


「……あ……」


 凛の瞳が揺れた。


「……部屋の中の空気と……こっちの空気が……混ざってます」


 悠は凛の肩を掴んだ。


「凛ちゃん、戻って……!」


 凛はゆっくりと首を振った。


「……戻れないです。だって……」


 凛は空気の一点を見つめた。


「……白い人が……手を伸ばしてます」


「凛ちゃん、見えないよ……何も……!」


「……見えてます。はっきり……」


 凛は一歩、また一歩と前に進んだ。


 その足取りは、まるで“別の床”を踏んでいるようだった。


「……白い床が……ここにあります」


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――凛の身体がふっと沈んだ。


 ほんの一瞬、凛の足が“白い床”に触れたように見えた。


「……あ……」


 凛は震える息を吐いた。


「……触れました。白い床に……触れました」


 悠の背筋に冷たいものが走った。


「凛ちゃん……戻って……!」


「……戻れないです。白い部屋が……近すぎます」


 そのとき――中庭の向こうから園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 その声が響いた瞬間――

 白い部屋の輪郭がふっと揺れ、薄くなった。


 凛はアヒルを抱きしめ、ゆっくりと振り返った。


「……はい、園長先生」


 しかし、凛の瞳にはまだ“白い部屋”が残っていた。


 悠はその瞳を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛はもう“白い底”をはっきり視ている。

 ――そして、その部屋は凛を離すつもりがない。

 その日の箱庭園は、朝から静かすぎた。

 曇り空の下、光は薄く、影は濃く沈み、風の音はどこか遠い。

 子どもたちの声は聞こえるのに、その響きが水の膜を通して届くように歪んでいた。


 凛は中庭の中央に立ち、アヒルを抱いたまま一点を見つめていた。

 その瞳は、もう“こちら側”だけを見ている目ではなかった。


「……開いてます」


 凛が呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


「凛ちゃん……何が開いてるの?」


 悠が近づくと、凛はゆっくりと空気の一点を指差した。


「……白い部屋の入口です。昨日より……ずっと大きいです」


 その瞬間――空気が、ふっと裂けた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、現実の空気に混ざり込んだ。

 凛の視界には、はっきりと“白い部屋”が見えていた。


 白い床。

 白い壁。

 白い天井。

 そして、部屋の中央に立つ“白い人影”。


「……見えます。部屋の中……全部」


「凛ちゃん……どんなふうに?」


「……白いです。全部が白くて……でも、何もないわけじゃなくて……」


 凛は一歩、前に出た。


 その足は、現実の地面ではなく、

 白い床の上に置かれたように見えた。


「……あ……」


 凛の身体が、わずかに沈んだ。


 悠は息を呑んだ。


「凛ちゃん、戻って!」


 悠が凛の腕を掴んだ。

 しかし――凛の身体は、びくりとも動かなかった。

 まるで、凛の足が“別の床”に固定されているかのようだった。


「……佐伯さん……?」


 凛は振り返らなかった。

 視線はずっと“白い部屋”の奥に向けられていた。


「……白い人が……手を伸ばしてます」


「凛ちゃん、誰もいないよ……!」


「……います。はっきり……見えます」


 凛はもう一歩、前に出ようとした。

 悠は必死に腕を引いた。

 しかし――凛は動かなかった。


 まるで、凛の身体の半分が“向こう側”に沈んでいるようだった。


「……呼んでます。“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……」


 凛の声は、どこか遠くから響いているようだった。


「凛ちゃん、戻って……お願い……!」


「……戻れないです。だって……」


 凛は胸に手を当てた。


「……白い部屋の空気が……ここに入ってきてます」


 その瞬間――凛の胸の奥から、白い呼吸が漏れた。


 ひゅう……

 すう……


 凛の呼吸が、完全に“向こう側”と同期していた。


「……あ……」


 凛の瞳が揺れた。


「……白い床が……私の足を掴んでます」


「凛ちゃん、だめ……!」


 悠は凛の肩を抱きしめた。

 しかし、凛の身体は冷たく、軽く、

 まるで半分が空気になっているようだった。


「……白い人が……近づいてきます」


「凛ちゃん、見えないよ……何も……!」


「……見えてます。すぐそこに……」


 凛は手を伸ばした。


 その手は、現実の空気ではなく、

 白い部屋の空気を掴もうとしていた。


「……触れます。白い空気に……触れます」


 悠は震えた。


「凛ちゃん、お願い……戻って……!」


 そのとき――園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろ――」


 しかし。


 凛は振り返らなかった。


 園長の声が、

 凛には届いていなかった。


「……聞こえません。白い部屋の音が……大きすぎて」


 凛はもう一歩、前に出た。


 その足は――

 完全に白い床へ沈んだ。


「……行きます」


「凛ちゃん!!」


 悠の叫びは、

 白い部屋の呼吸に吸い込まれるように消えた。


 凛は振り返らず、

 白い部屋の奥を見つめたまま、静かに言った。


「……もうすぐ……着きます」


 その瞳には、

 現実の景色はもう映っていなかった。

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