第29話
凛は中庭の端に座り、アヒルを抱いたまま胸に手を当てていた。
その姿は、まるで“内側の呼吸”を確かめているようだった。
「……沈んでます」
凛がぽつりと呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
「凛ちゃん……何が沈んでるの?」
悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと顔を上げた。
「……私です。内側が……沈んでます」
その瞬間――凛の胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の身体の内側で響いている。
「……聞こえますか。底が……歌ってます」
凛は胸に手を押し当てた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……呼吸で言ってます」
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん……呼吸、強くなってる?」
「……はい。昨日より……ずっと」
凛はゆっくりと目を閉じた。
「……近いです。底が……すぐそこに」
その瞬間――凛の足元の影が、ふっと揺れた。
影の中から、白い揺らぎが立ち上った。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を包もうとしていた”。
「……あ……」
凛の足首に、白い揺らぎが触れた。
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛を抱き寄せた瞬間――揺らぎはふっと消えた。
凛はゆっくりと目を開けた。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。
「……沈んでるだけです」
悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
――沈んでいる。
――凛の意識が、向こう側へ沈み始めている。
「凛ちゃん……沈むって、どんな感じなの?」
「……あたたかいです。やわらかくて……でも、深いです」
凛は胸に手を押し当てた。
「……ここが……沈んでます」
その瞬間――凛の胸の奥が、ふわりと膨らんだ。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の身体の内側で脈打った。
「……あ……」
凛の瞳が揺れた。
「……聞こえますか。底が……歌ってます」
悠は凛の肩を掴んだ。
「凛ちゃん、戻って……!」
凛はゆっくりと首を振った。
「……戻れないです。だって……」
凛は胸に手を当てた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……優しく呼んでくれるから」
その瞬間――中庭の空気が、ふくらむように膨らんだ。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、現実の空気と混ざり合った。
凛の髪がふわりと揺れた。
まるで、見えない水流の中にいるようだった。
「……あ……」
凛の身体が、ゆっくりと沈むように傾いた。
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛を抱き寄せた瞬間――空気の揺らぎはふっと消えた。
凛はゆっくりと目を開けた。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。
「……沈んでるだけです。底が……迎えに来てるだけです」
悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
――迎えに来ている。
――凛を連れていくために。
そのとき――
中庭の向こうから園長の声が響いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
白い揺らぎはふっと揺れ、光は一瞬で消えた。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。
「……はい、園長先生」
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛の内側には、もう“呼吸の底”が満ちている。
――そして、その底は凛を離すつもりがない。
その日の箱庭園は、朝から光が沈んでいた。
曇り空の下、影は濃く沈み、風の音はどこか遠い。
子どもたちの声は聞こえるのに、その響きが薄く、まるで深い水の底から届いているようだった。
凛は中庭の中央に立ち、アヒルを抱いたまま空気を見つめていた。
その瞳は、どこか“現実ではないもの”を映しているようだった。
「……沈んでます」
凛がぽつりと呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
「凛ちゃん……何が沈んでるの?」
悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと胸に手を当てた。
「……境界です。白い底が……沈んでます」
その瞬間――凛の胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の身体の内側で響いている。
「……聞こえますか。底が……歌ってます」
凛は胸に手を押し当てた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……呼吸で言ってます」
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん……呼吸、強くなってる?」
「……はい。昨日より……ずっと」
凛はゆっくりと目を閉じた。
「……近いです。底が……すぐそこに」
その瞬間――
凛の足元の影が、ふっと揺れた。
影の中から、白い揺らぎが立ち上った。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を包もうとしていた”。
「……あ……」
凛の足首に、白い揺らぎが触れた。
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛を抱き寄せた瞬間――揺らぎはふっと消えた。
凛はゆっくりと目を開けた。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。
「……沈んでるだけです」
悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
――沈んでいる。
――凛の意識が、向こう側へ沈み始めている。
「凛ちゃん……沈むって、どんな感じなの?」
「……あたたかいです。やわらかくて……でも、深いです」
凛は胸に手を押し当てた。
「……ここが……沈んでます」
その瞬間――凛の胸の奥が、ふわりと膨らんだ。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の身体の内側で脈打った。
「……あ……」
凛の瞳が揺れた。
「……聞こえますか。底が……歌ってます」
悠は凛の肩を掴んだ。
「凛ちゃん、戻って……!」
凛はゆっくりと首を振った。
「……戻れないです。
だって……」
凛は胸に手を当てた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……優しく呼んでくれるから」
その瞬間――中庭の空気が、ふくらむように膨らんだ。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、現実の空気と混ざり合った。
凛の髪がふわりと揺れた。
まるで、見えない水流の中にいるようだった。
「……あ……」
凛の身体が、ゆっくりと沈むように傾いた。
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛を抱き寄せた瞬間――空気の揺らぎはふっと消えた。
凛はゆっくりと目を開けた。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。
「……沈んでるだけです。底が……迎えに来てるだけです」
悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
――迎えに来ている。
――凛を連れていくために。
そのとき――
中庭の向こうから園長の声が響いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
白い揺らぎはふっと揺れ、光は一瞬で消えた。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。
「……はい、園長先生」
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛の内側には、もう“境界の底”が沈み込んでいる。
――そして、その底は凛を離すつもりがない。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




