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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第28話

 曇り空の下、影は濃く沈み、風の音はどこか遠い。

 子どもたちの声は聞こえるのに、その響きが薄く、まるで別の層を通って届いているようだった。


 凛は廊下の窓際に立ち、アヒルを抱いたまま外を見つめていた。

 その瞳は、どこか“現実ではないもの”を映しているようだった。


「……境界が……薄いです」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


「凛ちゃん……境界って、どこに見えるの?」


 悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと窓の外を指差した。


「……全部です。空も……地面も……白く揺れてます」


 その瞬間――窓の外の景色が、ふっと歪んだ。


 ひゅう……

 すう……


 呼吸のような音が、空気の中に混じった。


「……聞こえますか。底が……歌ってます」


 凛は胸に手を当てた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……ずっと呼んでます」


 悠は息を呑んだ。


「凛ちゃん……呼び声、強くなってる?」


「……はい。昨日より……ずっと」


 凛はゆっくりと目を閉じた。


「……近いです。底が……すぐそこに」


 その瞬間――凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 影の中から、白い手の“輪郭”が立ち上った。


 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を掴もうとしていた”。


「……あ……」


 凛の足首に、白い手が触れた。


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――

 手はふっと消えた。


 凛はゆっくりと目を開けた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。


「……呼び声が……触れただけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――触れただけで、これほど揺れる。


 凛の身体は、もう境界の向こう側に半分沈んでいるのかもしれない。


「凛ちゃん……境界って、どんなふうに見えるの?」


「……白いです。光みたいで……影みたいで……でも、裂けてます」


 凛は廊下の壁を指差した。


 そこには、昨日よりも太く、深く、長い白い線が走っていた。


「……ここにも……あります」


 その瞬間――壁の裂け目が、音もなく広がった。


 白い光が、廊下に溢れた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、廊下全体に満ちた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――

 裂け目の奥から、白い影がふっと現れた。


 昨日よりも濃く、形がはっきりしている。


 影は、凛を見つめていた。


「……こっちだよ」


 影が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の瞳が揺れた。

 その瞳は、どこか“帰る場所を見つけた子ども”のようだった。


「……見えます。底が……開いてます」


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が叫んだ。


 その瞬間――

 裂け目はふっと閉じた。


 白い光は消え、影の手も消えた。


 凛はアヒルを抱きしめ、震える息を吐いた。


「……近いです。底が……すぐそこに」


 悠は凛の肩を掴んだ。


「凛ちゃん……怖くないの?」


 凛はゆっくりと首を振った。


「……怖くないです。だって……」


 凛は胸に手を当てた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……優しく呼んでくれるから」


 その瞬間――凛の胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、凛の身体の内側で響いている。


「……あ……」


 凛の瞳が揺れた。


「……聞こえますか。底が……歌ってます」


 悠は凛の肩を強く抱きしめた。


「凛ちゃん、戻って……!」


 そのとき――

 廊下の向こうから園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 白い境界はふっと揺れ、光は一瞬で消えた。


 凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。


「……はい、園長先生」


 悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛の周囲には、もう“白い境界”が常に揺れている。

 ――そして、その境界は凛を離すつもりがない。


 その日の箱庭園は、朝から空気が脈打っていた。

 風は吹いていないのに、光がゆっくりと膨らんだり縮んだりしている。

 まるで、施設全体が“呼吸”しているようだった。


 凛は廊下の中央に立ち、アヒルを抱いたまま壁を見つめていた。

 その瞳は、どこか“別の層”を映しているようだった。


「……息をしてます」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


「凛ちゃん……何が息をしてるの?」


 悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと壁を指差した。


「……裂け目が……呼吸してます」


 その瞬間――

 壁の表面が、ふっと膨らんだ。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、壁の奥から漏れた。


 昨日よりもはっきりとしたリズムだった。

 まるで、向こう側に巨大な肺があり、現実の空気を吸い込んでいるかのようだった。


「……聞こえますか。底が……歌ってます」


 凛は胸に手を当てた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……呼吸で言ってます」


 悠は息を呑んだ。


「凛ちゃん……呼吸、強くなってる?」


「……はい。昨日より……ずっと」


 凛はゆっくりと目を閉じた。


「……近いです。底が……すぐそこに」


 その瞬間――

 凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 影の中から、白い手の“輪郭”が立ち上った。


 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を掴もうとしていた”。


「……あ……」


 凛の足首に、白い手が触れた。


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――

 手はふっと消えた。


 凛はゆっくりと目を開けた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。


「……呼吸が……触れただけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――触れただけで、これほど揺れる。


 凛の身体は、もう境界の向こう側に半分沈んでいるのかもしれない。


「凛ちゃん……裂け目、どんなふうに見えるの?」


「……白いです。光みたいで……影みたいで……でも、動いてます」


 凛は壁に手を伸ばした。


「……ほら、そこに」


 悠には何も見えない。

 けれど、壁がふっと膨らんだ。


 白い線が、呼吸に合わせて脈打っている。


「……あ……」


 凛の指先が、その線に触れた。


 その瞬間――裂け目が、凛の指を吸い込むように開いた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、凛の腕に触れた。


「……あ……!」


 凛の身体がふっと前に引かれた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛の腕を掴んだ瞬間――

 裂け目はふっと閉じた。


 凛はゆっくりと振り返った。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……呼吸が……迎えに来てるだけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――迎えに来ている。

 ――凛を連れていくために。


「凛ちゃん……怖くないの?」


 凛はゆっくりと首を振った。


「……怖くないです。だって……」


 凛は胸に手を当てた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……優しく呼んでくれるから」


 その瞬間――凛の胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、凛の身体の内側で響いている。


「……あ……」


 凛の瞳が揺れた。


「……聞こえますか。底が……歌ってます」


 悠は凛の肩を強く抱きしめた。


「凛ちゃん、戻って……!」


 そのとき――

 廊下の向こうから園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 白い境界はふっと揺れ、光は一瞬で消えた。


 凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。


「……はい、園長先生」


 悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛の周囲には、もう“裂け目の呼吸”が常に満ちている。

 ――そして、その呼吸は凛を離すつもりがない。

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