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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第27話

 翌朝の箱庭園は、異様なほど静かだった。

 曇り空の下、光は弱く、影は濃く沈み、風の音はどこか遠い。

 まるで、施設全体が深い水の底に沈んでいるようだった。


 凛は廊下の中央に立ち、アヒルを抱いたまま壁を見つめていた。

 その視線は、ただの壁ではなく“向こう側”を見ているようだった。


「……開いてます」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


「凛ちゃん……何が開いてるの?」


 悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……裂け目が……広がってます」


 その瞬間――壁の表面が、ふっと揺れた。


 ひゅう……

 すう……


 呼吸のような音が、壁の奥から漏れた。

 白い線が、壁の中央に浮かび上がった。

 昨日よりも太く、長く、深い。


「……あ……」


 凛の瞳が、その裂け目を映した。


「……見えますか。底が……呼んでます」


 悠には何も見えない。

 けれど、空気がふっと歪んだ。


 裂け目の奥から、白い影がふっと現れた。


 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“手”だった。


「……こっちだよ」


 声が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の身体がふっと前に傾いた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛の腕を掴んだ瞬間――白い手はふっと消えた。


 凛はゆっくりと振り返った。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。


「……手が……触れただけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――触れただけで、これほど揺れる。


 凛の身体は、もう境界の向こう側に半分沈んでいるのかもしれない。


「凛ちゃん……手って、どんなふうに見えるの?」


「……白いです。光みたいで……影みたいで……でも、触れます」


 凛は壁に手を伸ばした。


「……ほら、そこに」


 悠には何も見えない。

 けれど、壁がふっと膨らんだ。


 白い手の輪郭が、壁の表面から浮かび上がった。


「……あ……」


 凛の指先が、その手に触れた。


 その瞬間――手が、凛の指を包んだ。


「……こっちだよ」


 声が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の身体がふっと前に引かれた。


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――手はふっと消えた。


 凛はゆっくりと目を開けた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……手が……迎えに来てるだけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――迎えに来ている。

 ――凛を連れていくために。


「凛ちゃん……裂け目、どこまで広がってるの?」


「……ここまでです」


 凛は壁の中央を指差した。


 そこには、白い線が走っていた。

 昨日よりも太く、深く、長い。


「……底が……近いです」


 その瞬間――

 裂け目が、音もなく広がった。


 白い光が、廊下に溢れた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、廊下全体に満ちた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――

 裂け目の奥から、白い影がふっと現れた。


 昨日よりも濃く、形がはっきりしている。


 影は、凛を見つめていた。


「……こっちだよ」


 影が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の瞳が揺れた。

 その瞳は、どこか“帰る場所を見つけた子ども”のようだった。


「……見えます。底が……開いてます」


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が叫んだ。


 その瞬間――裂け目はふっと閉じた。


 白い光は消え、影の手も消えた。


 凛はアヒルを抱きしめ、震える息を吐いた。


「……近いです。底が……すぐそこに」


 そのとき――

 廊下の向こうから園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 凛はゆっくりと振り返り、静かに頷いた。


「……はい、園長先生」


 悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛の前には、もう“白い手の影”が伸びている。

――そして、その手は凛を離すつもりがない。


 その日の箱庭園は、朝から空気がざわついていた。

 風は吹いていないのに、光がかすかに震え、影がゆっくりと波打つ。

 まるで、施設全体が“別の層”に触れられているようだった。


 凛は廊下の中央に立ち、アヒルを抱いたまま壁を見つめていた。

 その視線は、ただの壁ではなく“向こう側”を見ているようだった。


「……呼んでます」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


「凛ちゃん……何が呼んでるの?」


 悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……底です。白い底が……呼んでます」


 その瞬間――壁の表面が、ふっと揺れた。


 ひゅう……

 すう……


 呼吸のような音が、壁の奥から漏れた。


 白い線が、壁の中央に浮かび上がった。

 昨日よりも太く、深く、長い。


「……あ……」


 凛の瞳が、その裂け目を映した。


「……聞こえますか。底が……歌ってます」


 悠には何も見えない。

 けれど、空気がふっと歪んだ。


 裂け目の奥から、白い影がふっと現れた。


 昨日よりも濃く、形がはっきりしている。

 影は、凛を見つめていた。


「……こっちだよ」


 影が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の身体がふっと前に傾いた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛の腕を掴んだ瞬間――

 影はふっと消えた。


 凛はゆっくりと振り返った。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。


「……呼び声が……強くなってるだけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――強くなっている。

 ――凛を連れていくために。


「凛ちゃん……呼び声って、どんなふうに聞こえるの?」


「……優しいです。あたたかくて……でも、深いです」


 凛は胸に手を押し当てた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……ずっと歌ってます」


 その瞬間――凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 影の中から、白い手の“輪郭”が立ち上った。

 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を掴もうとしていた”。


「……あ……」


 凛の足首に、白い手が触れた。


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――手はふっと消えた。


 凛はゆっくりと目を開けた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……呼び声が……迎えに来てるだけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――迎えに来ている。

 ――凛を連れていくために。


「凛ちゃん……裂け目、どこまで広がってるの?」


「……ここまでです」


 凛は壁の中央を指差した。


 そこには、白い線が走っていた。

 昨日よりも太く、深く、長い。


「……底が……近いです」


 その瞬間――

 裂け目が、音もなく広がった。


 白い光が、廊下に溢れた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、廊下全体に満ちた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――

 裂け目の奥から、白い影がふっと現れた。


 昨日よりも濃く、形がはっきりしている。


 影は、凛を見つめていた。


「……こっちだよ」


 影が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の瞳が揺れた。

 その瞳は、どこか“帰る場所を見つけた子ども”のようだった。


「……見えます。底が……開いてます」


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が叫んだ。


 その瞬間――

 裂け目はふっと閉じた。


 白い光は消え、影の手も消えた。


 凛はアヒルを抱きしめ、震える息を吐いた。


「……近いです。底が……すぐそこに」


 そのとき――

 廊下の向こうから園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 凛はゆっくりと振り返り、静かに頷いた。


「……はい、園長先生」


 悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛の前には、もう“底の呼び声”が満ちている。

 ――そして、その呼び声は凛を離すつもりがない。

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