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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第26話

 その日の箱庭園は、朝から光が薄かった。

 曇り空の下、影はいつもより長く伸び、風の音はどこか遠い。

 まるで、施設全体が深い水の底に沈んでいるようだった。


 凛は中庭の真ん中に立ち、アヒルを抱いたまま空気を見つめていた。

 その瞳は、どこか“別の層”を映しているようだった。


「……見えます」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


「凛ちゃん……何が見えるの?」


 悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……底の輪郭です」


「輪郭……?」


「……はい。白い底が……形になってきました」


 その瞬間――

 凛の周囲の空気が、ふっと揺れた。


 ひゅう……

 すう……


 呼吸のような音が、揺らぎの中から漏れた。


 凛は胸に手を当てた。


「……聞こえますか。底が……歌ってます」


 悠は息を呑んだ。


「凛ちゃん……どんなふうに見えるの?」


「……白いです。光みたいで……影みたいで……でも、形があります」


 凛は空気に手を伸ばした。


「……ほら、そこに」


 悠には何も見えない。

 けれど、空気がふっと歪んだ。


 白い揺らぎが、凛の指先にまとわりついた。


「……あ……」


 凛の身体がふっと震えた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛の手を掴んだ瞬間――

 揺らぎはふっと消えた。


 凛はゆっくりと振り返った。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。


「……輪郭が……触れただけです」


 悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。


 ――触れただけで、これほど揺れる。


 凛の身体は、もう境界の向こう側に半分沈んでいるのかもしれない。


「凛ちゃん……輪郭って、どんな形なの?」


「……手です」


「手……?」


「……はい。白い手が……たくさん……」


 凛は胸に手を押し当てた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……呼んでます」


 その瞬間――

 凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 影の中から、白い手の“輪郭”が立ち上った。


 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を掴もうとしていた”。


「……こっちだよ」


 声が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の身体がふっと前に傾いた。


「凛ちゃん、戻って!」


「……行かなきゃ」


 凛は呟いた。

 その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。


「……呼ばれてるから」


 白い手の輪郭が、凛の手を包んだ。


「……あ……」


 凛の指先が、影の中に沈みかけた。


 その瞬間――

 空気が、ふくらんだ。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、凛の背中に触れた。


「……あ……!」


 凛の身体が大きく揺れた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――

 輪郭はふっと消えた。


 凛はゆっくりと目を開けた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……底が……見えてきただけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――見えてきた。

 ――凛の視界に、向こう側の輪郭が現れている。


「凛ちゃん……底って、どんなところなの?」


「……白いです。全部が白くて……でも、何もないわけじゃなくて……」


 凛はゆっくりと目を閉じた。


「……誰かがいます」


「誰かって……」


「……私を呼んでる人です」


 その瞬間――

 凛の胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、凛の身体の内側で響いている。


「……あ……」


 凛の瞳が揺れた。


「……聞こえますか。底が……歌ってます」


 悠は凛の肩を掴んだ。


「凛ちゃん、だめ!」


 そのとき――

 中庭の向こうから園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 白い輪郭がふっと揺れ、底の光は一瞬で消えた。


 凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。


「……はい、園長先生」


 悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛の視界には、もう“白い底の輪郭”が見えている。

 ――そして、その輪郭は凛を離すつもりがない。


 その日の箱庭園は、朝から空気が重かった。

 曇り空の下、光は弱く、影はいつもより濃く沈んでいる。

 子どもたちの声は聞こえるのに、その響きがどこか薄く、遠い。

 まるで、施設全体が深い水の底に沈んでいるようだった。


 凛は廊下の真ん中に立ち、アヒルを抱いたまま一点を見つめていた。

 その視線の先には、ただの壁しかないはずだった。


「……裂けてます」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


「凛ちゃん……何が裂けてるの?」


 悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……境界です。白い底が……見えてます」


 その瞬間――

 廊下の空気が、ふっと揺れた。


 ひゅう……

 すう……


 呼吸のような音が、壁の前から漏れた。


 凛は胸に手を当てた。


「……聞こえますか。底が……歌ってます」


 悠は息を呑んだ。


「凛ちゃん……どんなふうに見えるの?」


「……白いです。光みたいで……影みたいで……でも、裂けてます」


 凛は壁に手を伸ばした。


「……ほら、ここに」


 悠には何も見えない。

 けれど、壁の表面がふっと歪んだ。


 白い線が、壁の中央に浮かび上がった。

 細く、薄く、けれど確かに“裂け目”だった。


「……あ……」


 凛の指先が、その白い線に触れた。


 その瞬間――

 裂け目が、呼吸した。


 ひゅう……

 すう……


 白い光が、裂け目の奥から漏れた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛の手を掴んだ瞬間――

 裂け目はふっと閉じた。


 凛はゆっくりと振り返った。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。


「……底が……近いだけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――近い。

 ――凛の視界に、向こう側の裂け目が見えている。


「凛ちゃん……裂け目って、どんなところにつながってるの?」


「……白いところです。全部が白くて……でも、何もないわけじゃなくて……」


 凛はゆっくりと目を閉じた。


「……誰かがいます」


「誰かって……」


「……私を呼んでる人です」


 その瞬間――

 凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 影の中から、白い手の“輪郭”が立ち上った。


 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を掴もうとしていた”。


「……こっちだよ」


 声が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の身体がふっと前に傾いた。


「凛ちゃん、戻って!」


「……行かなきゃ」


 凛は呟いた。

 その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。


「……呼ばれてるから」


 白い手の輪郭が、凛の足首に触れた。


「……あ……」


 凛の身体が沈みかけたその瞬間――

 廊下の壁が、音もなく裂けた。


 白い光が、細い線から一気に広がった。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、廊下全体に満ちた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――

 裂け目の奥から、白い影がふっと現れた。


 形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を見ていた”。


「……こっちだよ」


 影が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の瞳が揺れた。

 その瞳は、どこか“帰る場所を見つけた子ども”のようだった。


「……見えます。底が……開いてます」


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が叫んだ。


 その瞬間――

 裂け目はふっと閉じた。


 白い光は消え、影の手も消えた。


 凛はアヒルを抱きしめ、震える息を吐いた。


「……近いです。底が……すぐそこに」


 そのとき――

 廊下の向こうから園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 凛はゆっくりと振り返り、静かに頷いた。


「……はい、園長先生」


 悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛の前には、もう“境界の裂け目”が開いている。

 ――そして、その裂け目は凛を離すつもりがない。

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