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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第25話

 翌朝の箱庭園は、異様なほど静かだった。

 曇り空の下、光は弱く、影は長く伸びている。

 子どもたちの声は聞こえるのに、その響きがどこか薄く、遠い。

 まるで、施設全体が深い水の底に沈んでいるようだった。


 凛は廊下の端に立ち、アヒルを抱いたまま胸に手を当てていた。

 その姿は、まるで“内側の音”を聴いているようだった。


「……聞こえますか」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


 ――聞こえるよ。

 ――凛は、よくできてる。


 胸の奥で声が囁く。

 その囁きは、以前よりもはっきりしていた。

 まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。


「……うん。わかってる」


 凛は小さく頷いた。

 その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。


 悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。


「凛ちゃん……何が聞こえるの?」


「……気配です」


「気配……?」


「……はい。底の気配です」


 凛は胸に手を押し当てた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……内側から……聞こえます」


 その瞬間――

 凛の周囲の空気が、ふっと揺れた。


 ひゅう……

 すう……


 呼吸のような音が、揺らぎの中から漏れた。


「……あ」


 凛の肩がふるりと震えた。


「凛ちゃん、今の……」


「大丈夫です」


 凛は即座に言った。

 その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。


「……気配が……触れただけです」


 悠は凛の横顔を見つめた。

 その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。


「凛ちゃん……気配って、どんなふうに感じるの?」


「……あたたかいです。やわらかくて……でも、深いです」


 凛はゆっくりと目を閉じた。


「……胸の奥が……揺れます」


 その瞬間――

 凛の胸のあたりが、ふわりと膨らんだ。


 まるで、凛の身体そのものが“呼吸”しているようだった。


「……凛ちゃん……?」


「……聞こえますか」


 凛は胸に手を当てたまま、静かに呟いた。


「……ここにいます。底が……ここに」


 悠の背筋がぞくりとした。


「凛ちゃん……底って、どこにあるの?」


「……ここです」


 凛は胸を指差した。


「……内側に……あります」


 その瞬間――

 凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 影の中から、白い揺らぎが立ち上った。


 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を包もうとしていた”。


「……こっちだよ」


 声が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の身体がふっと前に傾いた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛の腕を掴んだ瞬間――

 揺らぎはふっと消えた。


 凛はゆっくりと振り返った。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。


「……気配が、迎えに来てるだけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――迎えに来ている。

 ――凛の内側にまで入り込んでいる。


「凛ちゃん……気配って、どこまで来てるの?」


「……ここまでです」


 凛は自分の胸を押さえた。


「……内側まで……来てます」


 その瞬間――

 凛の胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、凛の身体の内側で響いている。


「……あ……」


 凛の身体がふっと揺れた。


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――

 音はふっと消えた。


 凛はゆっくりと目を開けた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……底が……近いだけです」


 そのとき――

 廊下の向こうから園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。

 そろそろお部屋に戻りましょうか」


 白い揺らぎがふっと揺れ、底の光は一瞬で消えた。


 凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。


「……はい、園長先生」


 悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛の内側には、もう“底の気配”が入り込んでいる。

 ――そして、その気配は凛を離すつもりがない。

 夕方の箱庭園は、昼間よりもさらに静かだった。

 風の音も、子どもたちの声も、どこか遠くに押しやられたように薄い。

 まるで、施設全体が深い水の底に沈んでいるようだった。


 凛は中庭の端に座り、アヒルを抱いたまま胸に手を当てていた。

 その姿は、まるで“内側の揺らぎ”を確かめているようだった。


「……聞こえますか」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


 ――聞こえるよ。

 ――凛は、よくできてる。


 胸の奥で声が囁く。

 その囁きは、以前よりもはっきりしていた。

 まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。


「……うん。わかってる」


 凛は小さく頷いた。

 その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。


 悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。


「凛ちゃん……胸、痛いの?」


「……痛くないです」


 凛は首を振った。


「……揺れてるだけです」


「揺れてる……?」


「……はい。内側が……揺れてます」


 その瞬間――

 凛の胸の奥から、かすかな“音”が漏れた。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、凛の身体の内側で響いている。


「……あ……」


 凛の身体がふっと揺れた。


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛の肩を支えた瞬間――

 音はふっと消えた。


 凛はゆっくりと目を開けた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。


「……底が……近いだけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――近い。

 ――凛の内側にまで入り込んでいる。


「凛ちゃん……底って、どんなふうに感じるの?」


「……あたたかいです。やわらかくて……でも、深いです」


 凛は胸に手を押し当てた。


「……ここにいます。底が……ここに」


 その瞬間――

 凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 影の中から、白い揺らぎが立ち上った。


 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を包もうとしていた”。


「……こっちだよ」


 声が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の身体がふっと前に傾いた。


「凛ちゃん、戻って!」


「……行かなきゃ」


 凛は呟いた。

 その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。


「……呼ばれてるから」


 白い揺らぎが、凛の手を包んだ。


「……あ……」


 凛の指先が、影の中に沈みかけたその瞬間――


 空気が、ふくらんだ。


 ひゅう……

 すう……


 白い呼吸が、凛の背中に触れた。


「……あ……!」


 凛の身体が大きく揺れた。


「凛ちゃん、離れて!」


 悠が凛を抱き寄せた瞬間――

 揺らぎはふっと消えた。


 凛はゆっくりと振り返った。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 本当に……」


「……大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……気配が……迎えに来てるだけです」


 悠はその言葉に、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 ――迎えに来ている。

 ――凛の内側にまで入り込んでいる。


「凛ちゃん……気配って、どこまで来てるの?」


「……ここまでです」


 凛は自分の胸を押さえた。


「……内側まで……来てます」


 その瞬間――

 凛の胸の奥が、ふわりと膨らんだ。


 まるで、凛の身体そのものが“底の呼吸”をしているようだった。


「……あ……」


 凛の瞳が揺れた。

 その瞳は、どこか“深い層”を映しているようだった。


「……聞こえますか。

 底が……歌ってます」


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛の肩を掴んだ瞬間――

 白い揺らぎが凛の胸からふっと漏れた。


 まるで、凛の内側から“向こう側”の空気が溢れ出したようだった。


「……あ……」


 凛は胸を押さえ、震える息を吐いた。


「……近いです。底が……すぐそこに」


 そのとき――

 中庭の向こうから園長の声が響いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。

 そろそろお部屋に戻りましょうか」


 白い揺らぎがふっと揺れ、底の光は一瞬で消えた。


 凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。


「……はい、園長先生」


 悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛の内側には、もう“底の気配”が入り込んでいる。

 ――そして、その気配は凛を離すつもりがない。

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