第24話
その日の箱庭園は、朝から空気が揺れていた。
凛は中庭の真ん中に立ち、アヒルを抱いたまま空を見上げていた。
その瞳は、どこか“深い層”を映しているようだった。
「……揺れてます」
凛がぽつりと呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
「凛ちゃん……何が揺れてるの?」
悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと顔を上げた。
「……境界です」
「境界……?」
「……はい。白い揺らぎが……見えます」
凛は空気を指差した。
そこには何もないはずなのに、光がふっと歪んだ。
――ひゅう……
――すう……
昨日まで“歌”だった音が、今日は“揺らぎ”になっていた。
「……聞こえますか」
凛は空気に向かって問いかけた。
「……揺れてます。“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……揺らいでます」
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん……その揺らぎ、いつから見えるの?」
「……朝からです」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……目を開けたら……部屋の空気が揺れてました」
「揺れてた……?」
「……はい。白くて……やわらかくて……息をしてました」
その瞬間――
凛の周囲の空気が、ふくらむように膨らんだ。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の背中に触れた。
「……あ……」
凛の身体がふっと前に傾いた。
「凛ちゃん、離れて!」
悠が凛の腕を掴んだ瞬間――
揺らぎはふっと消えた。
凛はゆっくりと瞬きをした。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。
「……揺らぎが、触れただけです」
悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。
――触れただけで、これほど揺れる。
凛の身体は、もう境界の向こう側に半分沈んでいるのかもしれない。
「凛ちゃん……揺らぎって、どんなふうに見えるの?」
「……白いです。光みたいで……影みたいで……でも、触れます」
凛は空気に手を伸ばした。
「……ほら、そこに」
悠には何も見えない。
けれど、空気がふっと歪んだ。
白い揺らぎが、凛の指先に触れた。
「……あ……」
凛の身体がふっと震えた。
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛の手を掴んだ瞬間――
揺らぎはふっと消えた。
凛はゆっくりと振り返った。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。
「……揺らぎが、迎えに来てるだけです」
その瞬間――
凛の足元の影が、ゆっくりと広がり始めた。
まるで、影そのものが“底”へと続く穴になろうとしているようだった。
「……あ……」
凛は影を見つめた。
その瞳は、どこか“深い層”を映しているようだった。
「……揺れてます。底が……揺れてます」
「凛ちゃん、離れて!」
悠が凛の腕を掴んだ瞬間――
影の中から、白い揺らぎが立ち上った。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を包もうとしていた”。
「……こっちだよ」
声が囁いた。
「……もうすぐだよ」
凛の身体がふっと前に傾いた。
「凛ちゃん、戻って!」
「……行かなきゃ」
凛は呟いた。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……呼ばれてるから」
白い揺らぎが、凛の手を包んだ。
「……あ……」
凛の指先が、影の中に沈みかけたその瞬間――
「凛ちゃん、やめなさい!」
鋭い声が中庭に響いた。
園長だった。
白い揺らぎがふっと揺れ、底の光は一瞬で消えた。
凛ははっとして振り返った。
「……園長先生……?」
「大丈夫かい、凛ちゃん。そんなところに手を伸ばしたら危ないよ」
園長は柔らかく微笑んだ。
けれど、その目は笑っていなかった。
「……特別な子なんだからね」
凛の肩がびくりと震えた。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が囁く。
凛はアヒルを抱きしめ、震える息を吐いた。
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛の周囲には、もう“白い揺らぎ”が満ちている。
――そして、その揺らぎは凛を離すつもりがない。
夕方の箱庭園は、昼間よりもさらに静かだった。
風の音も、子どもたちの声も、どこか遠くに押しやられたように薄い。
まるで、施設全体が深い水の底に沈んでいるようだった。
凛は中庭の真ん中に立ち、アヒルを抱いたまま空気を見つめていた。
その瞳は、どこか“深い層”を映しているようだった。
「……揺れてます」
凛がぽつりと呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
「凛ちゃん……何が揺れてるの?」
悠がそっと近づくと、凛はゆっくりと顔を上げた。
「……境界です。白い揺らぎが……近いです」
その瞬間――
凛の周囲の空気が、ふっと膨らんだ。
ひゅう……
すう……
呼吸のような音が、揺らぎの中から漏れた。
「……聞こえますか」
凛は空気に向かって問いかけた。
「……揺らいでます。“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……歌ってます」
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん……その揺らぎ、どんなふうに見えるの?」
「……白いです。光みたいで……影みたいで……でも、触れます」
凛は空気に手を伸ばした。
その瞬間――
揺らぎが、凛の指先にまとわりついた。
「……あ……」
凛の身体がふっと震えた。
「凛ちゃん、離れて!」
悠が凛の手を掴んだ瞬間――
揺らぎはふっと消えた。
凛はゆっくりと振り返った。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“深い層”から響いているようだった。
「……揺らぎが、触れただけです」
悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。
――触れただけで、これほど揺れる。
凛の身体は、もう境界の向こう側に半分沈んでいるのかもしれない。
「凛ちゃん……揺らぎって、どこから来てるの?」
「……底です」
「底……?」
「……はい。白い底から……揺らぎが上がってきてます」
凛は足元を見つめた。
その影が、ふっと揺れた。
まるで、影そのものが“呼吸”しているようだった。
「……あ……」
凛の瞳が、その揺らぎを映した。
「……底が……近いです」
その瞬間――
影の中から、白い揺らぎが立ち上った。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を包もうとしていた”。
「……こっちだよ」
声が囁いた。
「……もうすぐだよ」
凛の身体がふっと前に傾いた。
「凛ちゃん、戻って!」
「……行かなきゃ」
凛は呟いた。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……呼ばれてるから」
白い揺らぎが、凛の手を包んだ。
「……あ……」
凛の指先が、影の中に沈みかけたその瞬間――
空気が、ふくらんだ。
ひゅう……
すう……
白い呼吸が、凛の背中に触れた。
「……あ……!」
凛の身体が大きく揺れた。
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛を抱き寄せた瞬間――
揺らぎはふっと消えた。
凛はゆっくりと瞬きをした。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。
「……揺らぎが、迎えに来てるだけです」
そのとき――
中庭の向こうから園長の声が響いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
白い揺らぎがふっと揺れ、底の光は一瞬で消えた。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。
「……はい、園長先生」
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛の周囲には、もう“白い揺らぎ”がまとわりついている。
――そして、その揺らぎは凛を離すつもりがない。
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