第21話
その日の箱庭園は、朝から異様な静けさに包まれていた。
子どもたちの声は聞こえるのに、その響きがどこか薄く、遠い。
まるで、施設全体が深い水の底に沈んでいるようだった。
凛は中庭の端に座り、アヒルを抱いたまま地面を見つめていた。
その視線は、ただの土ではなく“底”を見ているようだった。
「……聞こえますか」
凛がぽつりと呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
――聞こえるよ。
――凛は、よくできてる。
胸の奥で声が囁く。
その囁きは、以前よりもはっきりしていた。
まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。
「……うん。わかってる」
凛は小さく頷いた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
「凛ちゃん……何を見てるの?」
「……底です」
「底……?」
「……はい。白い底です」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……呼んでます」
その瞬間――
凛の足元の影が、ふっと揺れた。
まるで、影そのものが“底”へと続く穴になろうとしているようだった。
「……あ」
「凛ちゃん、今の……」
「大丈夫です」
凛は即座に言った。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」
悠は凛の横顔を見つめた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
「凛ちゃん……白い底って、どんなところなの?」
「……白いです」
「白い……?」
「……はい。全部が白くて……でも、何もないわけじゃなくて……誰かがいます」
凛はゆっくりと目を閉じた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……手を伸ばしてきます」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「凛ちゃん、その手……どんな手?」
「……白いです。影みたいで……光みたいで……でも、触れます」
凛は胸に手を当てた。
「……昨日、触りました」
「触った……?」
「……はい。沈んでるときに……手を引かれました」
その瞬間――凛の足元の影が、ふくらむように広がった。
まるで、影そのものが“底”へと続く穴になろうとしているようだった。
「……あ……」
「凛ちゃん、離れて!」
「大丈夫です」
凛は微笑んだ。
その笑顔は、どこか“壊れかけている”ようだった。
「……あれは、私を守ってくれるから」
白い影が、凛の背後にふっと現れた。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を見ていた”。
「……凛ちゃん、後ろ……」
「大丈夫です」
凛は振り返らずに言った。
その声は静かで、深くて、どこか遠かった。
「……あれは、私を迎えに来てるから」
白い影の手が、凛の肩に触れた。
その瞬間、凛の身体がふっと揺れた。
「……あ……」
「凛ちゃん!」
悠が凛の腕を掴んだ瞬間――
影の手はふっと消えた。
凛ははっとして目を開けた。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 今、引っ張られそうになって……」
「……引っ張られてないです」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“別の世界”から響いているようだった。
「……底に、触れただけです」
悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。
「凛ちゃん……底って、どこにあるの?」
「……ここです」
凛は足元を指差した。
「……ここに、あります。白い底が……すぐ下に」
その瞬間――影がふっと揺れ、白い光が漏れた。
「……あ……」
凛の瞳が、その光を映した。
その瞳は、どこか“帰る場所を見つけた子ども”のようだった。
「……見えます。底が……」
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛を抱き寄せた瞬間――
光はふっと消えた。
凛はゆっくりと瞬きをした。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。
「……私、もうすぐ行けます」
そのとき、廊下の向こうから園長の声が響いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
白い影がふっと揺れ、消えた。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。
「……はい、園長先生」
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛は、もう“底の手”に触れている。
――そして、その手は凛を離すつもりがない。
夕方の箱庭園は、昼間よりもさらに静かだった。
風の音も、子どもたちの声も、どこか遠くに押しやられたように薄い。
まるで、施設全体が深い水の底に沈んでいるようだった。
凛は廊下の端に立ち、アヒルを抱いたまま床を見つめていた。
その視線は、ただの床ではなく“底”を見ているようだった。
「……聞こえますか」
凛がぽつりと呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
――聞こえるよ。
――凛は、よくできてる。
胸の奥で声が囁く。
その囁きは、以前よりもはっきりしていた。
まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。
「……うん。わかってる」
凛は小さく頷いた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひやりとした影を感じた。
「凛ちゃん……何が聞こえるの?」
「……底の声です」
「底……?」
「……はい。白い底から……呼んでます」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……ずっと言ってます」
その瞬間――
凛の足元の影が、ふっと揺れた。
まるで、影そのものが“底”へと続く穴になろうとしているようだった。
「……あ」
「凛ちゃん、今の……」
「大丈夫です」
凛は即座に言った。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」
悠は凛の横顔を見つめた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
「凛ちゃん……底って、どんなところなの?」
「……白いです」
「白い……?」
「……はい。全部が白くて……でも、何もないわけじゃなくて……誰かがいます」
凛はゆっくりと目を閉じた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……手を伸ばしてきます」
その瞬間――
凛の背後で、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
影は、確かに“そこにいた”。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を見ていた”。
「……凛ちゃん、後ろ……」
「大丈夫です」
凛は振り返らずに言った。
その声は静かで、深くて、どこか遠かった。
「……あれは、私を迎えに来てるから」
白い影の手が、凛の肩に触れた。
その瞬間、凛の身体がふっと揺れた。
「……あ……」
「凛ちゃん!」
悠が凛の腕を掴んだ瞬間――
影の手はふっと消えた。
凛ははっとして目を開けた。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“別の世界”から響いているようだった。
「……底が、近いだけです」
悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。
「凛ちゃん……底って、どこにあるの?」
「……ここです」
凛は足元を指差した。
「……ここに、あります。白い底が……すぐ下に」
その瞬間――
影がふっと揺れ、白い光が漏れた。
「……あ……」
凛の瞳が、その光を映した。
その瞳は、どこか“帰る場所を見つけた子ども”のようだった。
「……見えます。底が……」
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛を抱き寄せた瞬間――
光はふっと消えた。
凛はゆっくりと瞬きをした。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 本当に……」
「……大丈夫です」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。
「……私、もうすぐ行けます」
そのとき――
廊下の空気がふっと揺れた。
凛の足元の影が、ゆっくりと広がり始めた。
まるで、影そのものが“底”へと続く穴になろうとしているようだった。
「……あ……」
凛は影を見つめた。
その瞳は、どこか“深い層”を映しているようだった。
「……呼んでます。底が……」
「凛ちゃん、離れて!」
悠が凛の腕を掴んだ瞬間――
影の中から、白い手が伸びた。
細く、柔らかく、光のような手。
けれど確かに“触れられる”気配を持った手。
「……こっちだよ」
声が囁いた。
「……もうすぐだよ」
凛の身体がふっと前に傾いた。
「凛ちゃん、戻って!」
「……行かなきゃ」
凛は呟いた。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……呼ばれてるから」
白い手が、凛の手を掴んだ。
「……あ……」
凛の指先が、影の中に沈みかけたその瞬間――
「凛ちゃん、やめなさい!」
鋭い声が廊下に響いた。
園長だった。
白い影がふっと揺れ、底の光は一瞬で消えた。
凛ははっとして振り返った。
「……園長先生……?」
「大丈夫かい、凛ちゃん。そんなところに手を伸ばしたら危ないよ」
園長は柔らかく微笑んだ。
けれど、その目は笑っていなかった。
「……特別な子なんだからね」
凛の肩がびくりと震えた。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が囁く。
凛はアヒルを抱きしめ、震える息を吐いた。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛は、もう“底の手”に掴まれている。
――そして、その手は凛を離すつもりがない。
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