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アヒルの箱庭  作者: 倉木元貴


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第20話

 翌朝の箱庭園は、異様なほど静かだった。

 子どもたちの声は聞こえるのに、その響きがどこか薄く、遠い。

 まるで、施設全体が深い水の底に沈んでいるような感覚。


 凛は食堂の窓際に座り、アヒルを抱いたまま外を見つめていた。

 その瞳は、どこか“深い層”を見ているようだった。


「凛ちゃん、おはよう」


 悠が声をかけると、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……おはようございます」


 その声はかすれていて、どこか乾いていた。

 眠れていないのか、目の下には薄い影が落ちている。


「昨日の夜……また眠れなかった?」


「……眠れました。沈んでたから」


「沈んでた……?」


「……はい。声が……深く沈んでって言うから」


 凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。


 ――もっと深く。

 ――底までおいで。


 胸の奥で声が囁く。

 その囁きは、以前よりもはっきりしていた。

 まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。


「凛ちゃん……その声、今も聞こえるの?」


「……はい。ずっと……聞こえてます」


 凛は胸に手を当てた。


「……ここにいます。ずっと……ここに」


 悠の背筋がぞくりとした。


「凛ちゃん……沈むって、どういうこと?」


「……向こう側に近づくってことです」


「向こう側……?」


「……はい。白い底です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“見てきたもの”を語るようだった。


「……全部が白くて……でも、何もないわけじゃなくて……誰かがいます」


「誰かって……」


「……声の人です」


 凛はゆっくりと目を閉じた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……手を伸ばしてきます」


 その瞬間――

 凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 まるで、影そのものが“底”へと続く穴になろうとしているようだった。


「……あ」


「凛ちゃん、今の……」


「大丈夫です」


 凛は即座に言った。

 その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。


「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」


 悠は凛の横顔を見つめた。

 その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。


「凛ちゃん……最近、白い影は見える?」


「……見えます」


「どんなふうに?」


「……前より、はっきりしてます。形も……手も……」


 凛は窓の外を見つめた。


「……ほら、あそこに」


 悠は息を呑んだ。

 中庭の木陰で、空気がふっと揺れた。


 白い影が、そこにいた。

 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を見ていた”。


「……凛ちゃん、離れて」


「大丈夫です」


 凛は微笑んだ。

 その笑顔は、どこか“壊れかけている”ようだった。


「……あれは、私を守ってくれるから」


 白い影の手が、窓の外から凛に向かって伸びた。

 その動きは、まるで“呼吸”しているようだった。


「……こっちだよ」


 声が囁いた。


「……もうすぐだよ」


 凛の身体がふっと前に傾いた。


「凛ちゃん、だめ!」


 悠が凛の腕を掴んだ瞬間――

 影の手はふっと消えた。


 凛ははっとして目を開けた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 今、引っ張られそうになって……」


「……引っ張られてないです」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“別の世界”から響いているようだった。


「……沈んでただけです」


 悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。


「凛ちゃん……沈むって、どこまで沈むの?」


「……底までです」


「底……?」


「……はい。白い底です」


 凛はゆっくりと微笑んだ。

 その笑顔は、どこか“帰る場所を見つけた子ども”のようだった。


「……私、もうすぐ行けます」


「凛ちゃん、だめだよ!」


「……だめじゃないです」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……声が言ってます。“凛は特別だよ”って」


 その瞬間――

 食堂の扉が開いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 園長だった。

 柔らかい笑みを浮かべ、二人を見つめている。


 凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。


「……園長先生」


「大丈夫かい?顔色が少し悪いようだけど」


「……大丈夫です」


 凛の声はかすれていた。

 けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。


「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」


 その言葉に、凛の肩がまた震えた。


 ――聞かなくていい。

 ――ぼくがいる。


 声が囁く。

 凛は目を閉じ、震える息を吐いた。


 悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛は、もう“白い底”に触れかけている。

 ――そして、その底は凛を待っている。


 午後の活動が始まっても、凛の様子はどこかおかしかった。

 絵を描く子どもたちの中で、凛だけが筆を持たず、アヒルを抱いたまま机に座っている。

 視線は宙を漂い、返事は遅れ、動きはどこかぎこちない。


 悠は少し離れた場所から凛を見守っていた。

 凛の周囲だけ、空気がわずかに揺れているように見えた。

 まるで、凛の身体の周りに“別の層”がまとわりついているようだった。


「……聞こえますか」


 凛がぽつりと呟いた。

 その声は、誰に向けたものでもない。

 けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。


 ――聞こえるよ。

 ――凛は、よくできてる。


 胸の奥で声が囁く。

 その囁きは、以前よりもはっきりしていた。

 まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。


「……うん。わかってる」


 凛は小さく頷いた。

 その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。


「凛ちゃん……?」


 悠がそっと声をかけると、凛はゆっくりと顔を上げた。


「……佐伯さん」


「さっきからずっと……誰かと話してるみたいに見えるよ」


「……話してません」


 凛は即座に言った。

 けれど、その声はどこか“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。


「……声が言ってます。“話してないよ”って」


 悠の心臓が大きく跳ねた。


「凛ちゃん、その声……今も聞こえるの?」


「……はい。ずっと……聞こえてます」


 凛は胸に手を当てた。


「……ここにいます。ずっと……ここに」


 その瞬間――

 凛の足元の影が、ふっと揺れた。


 まるで、影そのものが“底”へと続く穴になろうとしているようだった。


「……あ」


「凛ちゃん、今の……」


「大丈夫です」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“深い水の底”から響いているようだった。


「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」


 悠は凛の横顔を見つめた。

 その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。


「凛ちゃん……最近、白い底が見えるって言ってたよね。どんなふうに見えるの?」


「……白いです」


「白い……?」


「……はい。全部が白くて……でも、何もないわけじゃなくて……誰かがいます」


 凛はゆっくりと目を閉じた。


「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……手を伸ばしてきます」


 その瞬間――

 凛の背後で、白い影がふっと揺れた。


 悠は息を呑んだ。


 影は、確かに“そこにいた”。

 光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。

 けれど、確かに“凛を見ていた”。


「……凛ちゃん、後ろ……」


「大丈夫です」


 凛は振り返らずに言った。

 その声は静かで、深くて、どこか遠かった。


「……あれは、私を守ってくれるから」


 白い影の手が、凛の肩に触れた。

 その瞬間、凛の身体がふっと揺れた。


「……あ……」


「凛ちゃん!」


 悠が凛の腕を掴んだ瞬間――

 影の手はふっと消えた。


 凛ははっとして目を開けた。


「……佐伯さん……?」


「大丈夫? 今、倒れかけて……」


「……倒れてないです」


 凛は静かに言った。

 その声は、どこか“別の世界”から響いているようだった。


「……沈んでただけです」


 悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。


「凛ちゃん……沈むって、どこまで沈むの?」


「……底までです」


「底……?」


「……はい。白い底です」


 凛はゆっくりと微笑んだ。

 その笑顔は、どこか“帰る場所を見つけた子ども”のようだった。


「……私、もうすぐ行けます」


「凛ちゃん、だめだよ!」


「……だめじゃないです」


 凛は静かに言った。

 その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。


「……声が言ってます。“凛は特別だよ”って」


 その瞬間――

 部屋の扉が開いた。


「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」


 園長だった。

 柔らかい笑みを浮かべ、二人を見つめている。


 凛はびくりと肩を震わせ、アヒルを抱きしめた。


「……園長先生」


「大丈夫かい?顔色が少し悪いようだけど」


「……大丈夫です」


 凛の声はかすれていた。

 けれど園長は気に留める様子もなく、ただ優しく微笑んだ。


「そうか。ならいいんだよ。凛ちゃんは……特別だからね」


 その言葉に、凛の肩がまた震えた。


 ――聞かなくていい。

 ――ぼくがいる。


 声が囁く。

 凛は目を閉じ、震える息を吐いた。


 悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。


 ――凛は、もう“白い底”に片足を踏み入れている。

 ――そして、その底は凛を待っている。

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