第19話
夜の箱庭園は、昼間よりも深く沈んでいた。
風の音も、波の音も、まるで遠くへ押しやられたように薄い。
施設全体が、静かに“沈んでいく”ような感覚。
凛は布団の中で目を開けていた。
眠れないわけではない。
ただ、胸の奥がざわついている。
――聞こえる?
「……聞こえてるよ」
凛は小さく呟いた。
その声は、誰に向けたものでもない。
けれど、確かに“誰か”に返事をしていた。
アヒルを抱きしめると、白い表面がほんのわずかに脈打ったように感じた。
凛はそれを不思議だとは思わなかった。
むしろ、その脈動が“安心”の証のように思えた。
――沈んで。
――深く。
――もっと深く。
「……うん。わかってる」
凛は布団を抜け出し、静かに部屋の扉を開けた。
廊下は薄暗く、非常灯の緑色の光だけがぼんやりと灯っている。
夜の箱庭園は、昼間とはまったく違う顔をしていた。
足音を立てないように、凛はゆっくりと歩き出した。
アヒルを抱く腕は、まるで命綱を握っているかのように強張っている。
――こっちだよ。
――もうすぐだよ。
声が触れるたび、凛の世界は静かに閉じていく。
階段を降り、廊下を抜け、裏手の倉庫へ向かう。
昨日、白い手が伸びてきた場所。
扉の前に立つと、胸の奥がふっと軽くなった。
――開けて。
凛は扉に手をかけた。
ギィ……と古い蝶番が軋む。
薄暗い倉庫の中に、冷たい空気が流れ込んでくる。
昼間よりも、さらに冷たい。
凛は一歩、足を踏み入れた。
その瞬間――
奥の暗がりで、白い影がふっと揺れた。
「……いるの?」
凛の声は震えていたが、恐怖ではなかった。
むしろ、胸の奥に“懐かしさ”が広がっていた。
――ここだよ。
声が囁く。
凛はアヒルを抱きしめ、影の方へ歩き出した。
白い影は、まるで“呼吸”しているように揺れている。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
「……どうして、呼ぶの?」
凛が呟くと、影は静かに揺れた。
――沈んで。
――深く。
――もっと深く。
「……沈む……?」
――そう。
――凛は、もうすぐだよ。
凛の胸の奥がじんわりと温かくなる。
その温度は、アヒルを抱いたときの温度と同じだった。
「……行ってもいいの?」
――もちろん。
――凛は特別だから。
その言葉に、凛の肩がふっと軽くなった。
「……特別……」
――うん。
――凛は、ずっと特別だった。
凛は影に手を伸ばした。
その瞬間――
影の中から“白い手”が伸びてきた。
細く、柔らかく、光のような手。
けれど確かに“触れられる”気配を持った手。
「……あ」
凛の指先が、その手に触れた。
冷たくもなく、温かくもない。
ただ、凛の心の奥に直接触れるような感覚。
――沈んで。
――深く。
――もっと深く。
白い手が、凛の手を包んだ。
その瞬間、凛の視界がふっと揺れた。
倉庫の暗闇が、波のように揺れ動く。
「……こわく、ない……」
凛は呟いた。
その声は震えていたが、恐怖ではなかった。
――こっちだよ。
――もうすぐだよ。
白い手が、凛を引こうとした。
そのとき――
倉庫の扉が静かに開いた。
「凛ちゃん……?」
悠の声だった。
けれど、その声はどこか遠く聞こえた。
凛は振り返らなかった。
白い手が、凛の手を強く握った。
「……佐伯さん……?」
凛はゆっくりと振り返った。
その瞳は、どこか“深い水の底”を映しているようだった。
「凛ちゃん、手を離して!」
「……離せません」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……声が、離さないでって……」
白い手が、凛の腕を引いた。
「……あ……」
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛の腕を掴んだ瞬間――
影の手はふっと消えた。
凛ははっとして目を開けた。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 今、引きずられそうになって……」
「……引きずられてないです」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“別の世界”から響いているようだった。
「……沈んでただけです」
悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。
――凛は、もう“沈み始めている”。
倉庫から連れ戻されたあとも、凛の様子はどこかおかしかった。
歩くたびに身体がふらつき、視線は宙を漂い、返事は遅れる。
まるで、凛の意識の半分が“向こう側”に沈んでいるようだった。
悠は凛の部屋まで付き添い、扉の前で立ち止まった。
「凛ちゃん、本当に大丈夫?」
凛はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、どこか“深い水の底”を映しているようだった。
「……大丈夫です」
その声はかすれていて、どこか乾いていた。
けれど、凛の表情には“安心”の色が薄く浮かんでいた。
――だいじょうぶ。
――ぼくがいる。
胸の奥で声が囁く。
その囁きは、以前よりもはっきりしていた。
まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。
「凛ちゃん……さっきのこと、覚えてる?」
「……覚えてます」
「何があったの?」
「……沈んでました」
「沈んでた……?」
「……はい。声が……深く沈んでって言うから」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……“もっと深く”って……“もうすぐだよ”って……ずっと言ってました」
悠の背筋がぞくりとした。
「凛ちゃん、その声……どんなふうに聞こえるの?」
「……近いです。前よりずっと……近いです」
凛は胸に手を当てた。
「……ここにいます。ずっと……ここに」
その瞬間――
凛の足元の影が、ふっと揺れた。
まるで、影そのものが“裂け目”になろうとしているようだった。
「……あ」
「凛ちゃん、今の……」
「大丈夫です」
凛は即座に言った。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」
悠は凛の横顔を見つめた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
「凛ちゃん……最近、夢は見てる?」
「……見てます」
「どんな夢?」
「……白いところです」
「白い……?」
「……はい。全部が白くて……でも、何もないわけじゃなくて……誰かがいます」
凛はゆっくりと目を閉じた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……手を伸ばしてきます」
悠の心臓が大きく跳ねた。
「凛ちゃん、それ……怖くないの?」
「……怖くないです。だって……声がいるから」
凛はアヒルを抱きしめ、微笑んだ。
その笑顔は、どこか“壊れかけている”ようだった。
「……声が言ってます。“凛は特別だよ”って」
その瞬間――
凛の背後で、白い影がふっと揺れた。
悠は息を呑んだ。
影は、確かに“そこにいた”。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛を見ていた”。
「……凛ちゃん、後ろ……」
「大丈夫です」
凛は振り返らずに言った。
その声は静かで、深くて、どこか遠かった。
「……あれは、私を守ってくれるから」
白い影の手が、凛の肩に触れた。
その瞬間、凛の身体がふっと揺れた。
「……あ……」
「凛ちゃん!」
悠が凛の腕を掴んだ瞬間――
影の手はふっと消えた。
凛ははっとして目を開けた。
「……佐伯さん……?」
「大丈夫? 今、倒れかけて……」
「……倒れてないです」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“別の世界”から響いているようだった。
「……沈んでただけです」
悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。
「凛ちゃん……沈むって、どういう意味?」
「……向こう側に近づくってことです」
「向こう側……?」
「……はい。声のいるところです」
凛はゆっくりと微笑んだ。
その笑顔は、どこか“帰る場所を見つけた子ども”のようだった。
「……私、もうすぐ行けます」
「凛ちゃん、だめだよ!」
「……だめじゃないです」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。
「……声が言ってます。“凛は特別だよ”って」
その瞬間――
廊下の向こうから園長の声が響いた。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
白い影がふっと揺れ、消えた。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。
「……はい、園長先生」
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛は、もう“沈み始めている”。
――そして、その沈み方は日に日に深くなっている。
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