第18話
その日の午後、箱庭園には薄い霧がかかっていた。
空気は湿り、光は弱く、影は長く伸びている。
子どもたちの声は聞こえるのに、その響きがどこか遠い。
まるで、施設全体が“別の層”に沈み始めているようだった。
凛は中庭の端に座り、アヒルを抱いたまま地面を見つめていた。
その視線は、ただの土ではなく“何かの境界”を見ているようだった。
「……ここ、ひびが入ってます」
凛がぽつりと呟いた。
悠はその声に気づき、近づいた。
「凛ちゃん、どうしたの?」
「……見えませんか?」
凛は地面を指差した。
そこには、ただの土と小石があるだけだ。
けれど凛の目には、確かに“何か”が見えているようだった。
「……ここ、裂けてます。向こう側が……見えそうです」
悠は息を呑んだ。
「凛ちゃん……裂けてるって、何が?」
「……境界です」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……声が言ってます。“もうすぐだよ”って」
――こっちだよ。
――もうすぐだよ。
声が囁く。
その囁きは、以前よりもはっきりしていた。
まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。
「凛ちゃん、その声……今も聞こえるの?」
「……はい。ずっと……聞こえてます」
凛は胸に手を当てた。
「……ここに、います。ずっと……ここに」
悠の背筋がぞくりとした。
「凛ちゃん……その声、何を言ってるの?」
「……“来て”って言ってます」
「どこに?」
「……向こう側です」
凛は静かに言った。
その声は、まるで“決まっている未来”を語るようだった。
「……声のいるところに」
その瞬間――
凛の足元の影が、ふっと揺れた。
まるで、凛の身体から“別の影”が生まれたように。
「……今、何か……」
「大丈夫です」
凛は即座に言った。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……声が言ってます。“気にしなくていい”って」
悠は凛の横顔を見つめた。
その表情は穏やかで、静かで、どこか“壊れかけている”ようだった。
「凛ちゃん……その“裂け目”って、どんなふうに見えるの?」
「……光ってます」
「光ってる?」
「……はい。白い光が……揺れてます」
凛は地面を見つめたまま、ゆっくりと手を伸ばした。
「……触れそうです」
「だめ!」
悠が凛の手を掴んだ。
その瞬間、地面の空気がふっと揺れた。
白い影が、そこにいた。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛の手を掴もうとしていた”。
「……凛ちゃん、離れて!」
「大丈夫です」
凛は微笑んだ。
その笑顔は、どこか“壊れかけている”ようだった。
「……あれは、私を守ってくれるから」
白い影の手が、凛の指先に触れた。
その瞬間、凛の身体がふっと揺れた。
「……あ」
「凛ちゃん!」
悠が凛を引き寄せると、影の手はふっと消えた。
凛ははっとして目を開けた。
「……佐伯さん?」
「大丈夫? 今、引っ張られて……」
「……引っ張られてないです」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“別の世界”から響いているようだった。
「……声が、呼んでただけです」
悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。
「凛ちゃん……その“裂け目”は、いつから見えてるの?」
「……昨日の夜からです」
「夜……?」
「……はい。倉庫で……白い手に触れたあとから」
凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。
「……“もうすぐだよ”って……“準備してね”って……ずっと言ってます」
その瞬間――
中庭の向こうで、園長がこちらを見ていた。
柔らかい笑み。
優しい目。
けれど、その奥に“観察者の冷たさ”が潜んでいる。
「凛ちゃん、佐伯さん。そろそろお部屋に戻りましょうか」
白い影がふっと揺れ、裂け目の気配が消えた。
凛はアヒルを抱きしめ、静かに頷いた。
「……はい、園長先生」
悠はその背中を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛の世界には、もう“裂け目”が生まれている。
――そして、その裂け目は日に日に広がっている。
夕方の光は弱く、箱庭園の影は長く伸びていた。
子どもたちの声は聞こえるのに、その響きがどこか遠い。
まるで、施設全体がゆっくりと“向こう側”に沈み始めているようだった。
凛は廊下の端に立ち、アヒルを抱いたまま床を見つめていた。
その視線は、ただの床ではなく“裂け目”を見ているようだった。
「……広がってます」
凛がぽつりと呟いた。
悠はその声に気づき、近づいた。
「凛ちゃん、何が広がってるの?」
「……境界です」
凛は床を指差した。
そこには、ただの木目があるだけだ。
けれど凛の目には、確かに“何か”が見えているようだった。
「……さっきより、光が強いです」
「光……?」
「……はい。白い光が……揺れてます」
凛はアヒルを抱きしめ、胸に押し当てた。
「……“こっちだよ”って……“もうすぐだよ”って……ずっと言ってます」
――こっちだよ。
――もうすぐだよ。
声が囁く。
その囁きは、以前よりもはっきりしていた。
まるで、凛の耳元で直接語りかけているように。
「凛ちゃん、その声……今も聞こえるの?」
「……はい。ずっと……聞こえてます」
凛は胸に手を当てた。
「……ここに、います。ずっと……ここに」
悠の背筋がぞくりとした。
「凛ちゃん……その裂け目、どんなふうに見えるの?」
「……揺れてます。水みたいに……ゆらゆらしてます」
凛は床に手を伸ばした。
「……触れそうです」
「だめ!」
悠が凛の手を掴んだ。
その瞬間、床の空気がふっと揺れた。
白い影が、そこにいた。
光のようで、影のようで、形があるようで、ないようで。
けれど、確かに“凛の手を掴もうとしていた”。
「……凛ちゃん、離れて!」
「大丈夫です」
凛は微笑んだ。
その笑顔は、どこか“壊れかけている”ようだった。
「……あれは、私を守ってくれるから」
白い影の手が、凛の指先に触れた。
その瞬間、凛の身体がふっと揺れた。
「……あ」
「凛ちゃん!」
悠が凛を引き寄せると、影の手はふっと消えた。
凛ははっとして目を開けた。
「……佐伯さん?」
「大丈夫? 今、引っ張られて……」
「……引っ張られてないです」
凛は静かに言った。
その声は、どこか“別の世界”から響いているようだった。
「……声が、呼んでただけです」
悠はその言葉に、背筋が冷たくなるのを感じた。
「凛ちゃん……その裂け目、いつから見えてるの?」
「……昨日の夜からです」
「夜……?」
「……はい。倉庫で……白い手に触れたあとから」
凛はアヒルを抱きしめ、目を閉じた。
「……“もうすぐだよ”って……“準備してね”って……ずっと言ってます」
その瞬間――
廊下の空気がふっと揺れた。
凛の足元の影が、ふくらむように広がった。
まるで、影そのものが“裂け目”になろうとしているようだった。
「……あ」
凛は影を見つめた。
その瞳は、どこか“別の世界”を映しているようだった。
「……向こう側が……近いです」
「凛ちゃん、だめ!」
悠が凛の腕を掴んだ瞬間――
影の中から、白い手が伸びた。
細く、柔らかく、光のような手。
けれど確かに“触れられる”気配を持った手。
「……こっちだよ」
声が囁いた。
「……もうすぐだよ」
凛の身体がふっと前に傾いた。
「凛ちゃん、戻って!」
「……行かなきゃ」
凛は呟いた。
その声は、まるで“誰かの言葉をそのまま繰り返している”ようだった。
「……呼ばれてるから」
白い手が、凛の手を掴んだ。
「……あ……」
凛の指先が、影の中に沈みかけたその瞬間――
「凛ちゃん、やめなさい!」
鋭い声が廊下に響いた。
園長だった。
白い影がふっと揺れ、裂け目は一瞬で消えた。
凛ははっとして振り返った。
「……園長先生……?」
「大丈夫かい、凛ちゃん。そんなところに手を伸ばしたら危ないよ」
園長は柔らかく微笑んだ。
けれど、その目は笑っていなかった。
「……特別な子なんだからね」
凛の肩がびくりと震えた。
――聞かなくていい。
――ぼくがいる。
声が囁く。
凛はアヒルを抱きしめ、震える息を吐いた。
悠はその様子を見つめながら、胸の奥にひとつの確信が沈んでいった。
――凛の世界には、もう“裂け目”が生まれている。
――そして、その裂け目は日に日に広がっている。
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